金剛般若経の不思議な論理

金剛般若経には不思議な論理が見られる。
金剛般若経とは、二世紀頃に成立した初期の大乗仏教経典であり、「空」を説く般若経典のうち比較的短いものである。
金剛般若経は、釈尊十大弟子の一人スブーティ(須菩提)との対話の形式で進められていく。


金剛般若経に見られる不思議な論理の例を列挙してみよう。引用は、中村元紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)に基づく。()内は引用元のページと章である。(サンスクリット原文の訳による)

如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。それはなぜかというと、師よ、〈特徴をそなえているということは特徴をそなえていないことだ〉と、如来が仰せられたからです。」(p51)(5)

「その立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積んだことになるのです。それはなぜかというと、師よ、〈如来によって説かれた、功徳を積むということは、功徳を積まないということだ〉と如来が説かれているからです。それだから、如来は〈功徳を積む、功徳を積む〉と説かれるのです。」(p57)(8)

「もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は〈国土の建設というのは、建設でないことだ〉と説かれているからだ。それだからこそ〈国土の建設〉と言われるのだ。」(p67)(10・b)

「師よ、如来は、『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。師よ、それは有でもなく、また、無でもないのです。それだからこそ、〈体〉と言われるのです。」(p67)(10・c)

「この法門は《知恵の完成》と名づけられる。そのように記憶するがよい。それはなぜかというと、スブーティよ、『如来によって説かれた《知恵の完成》は、知恵の完成ではない』と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、《知恵の完成》と言われるのだ。」(p73)(13・a)

「師よ、『如来によって説かれた、大地の塵は、大地の塵ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ、大地の塵と言われるのです。また、『如来によって説かれたこの世界は、世界ではない』と如来によって説かれているからです。それだからこそ〈世界〉と言われるのです。」(p73)(13・c)

如来・尊敬すべき人・正しく目ざめた人は、偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるものではありません。それはなぜかというと、実に、師よ、『如来によって説かれた、偉大な人物に具わる三十二の特徴は、特徴でない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、〈偉大な人物に具わる三十二の特徴〉と言われるのです。」(p75)(13・d)

「この経が説かれるのを聞いて、真実だという思いをおこす求道者は、この上ない、すばらしい性質をそなえた人々でありましょう。それはなぜかというと、師よ、真実だという思いは、真実でないという思いだからです。それだからこそ、如来は、〈真実だという思い、真実だという思い〉と説かれるのです。」(p77)(14・a)

「この経が説かれるときに、驚かず、恐れず、恐怖に陥らない人々は、この上ない、すばらしい性質をそなえた人々である。それはなぜかというと、スブーティよ、如来の説かれたこの最上の完成は、実は完成ではないからだ。またスブーティよ、如来が最上の完成であると説いたそのことを、無量の、目ざめた人である世尊らがまた説いているからだ。それだからこそ、〈最上の完成者〉と言われるのだ。」(p79)(14・d)

如来が現に覚り示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ《あらゆる法》と言われるのだ。」(p97)(17・d)

如来が、〈身が整い身の大きな人〉と説かれたかの人は、師よ、実は体のない人であると、如来は説かれました。それだからこそ、〈身が整い、身が大きい〉と言われるのです。」(p99)(17・e)

「『〈生きているもの〉〈生きているもの〉と言うのは、実は生きているものではない』と如来は言っている。それだからこそ、生きているものと言われるのだ。それだから、如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには、生きているというものはない。個体というものはない。個人というものはない』と言われるのだ。」(p101)(17・f)

「もしも、ある求道者が、『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、この人もまた同様に〈求道者ではない〉と言わなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は、『〈国土の建設〉〈国土の建設〉というのは、建設でないことだ』と説いているからだ。それだからこそ、〈国土の建設〉と言われるのだ。」(p101)(17・g)

「立派な若者や立派な娘は、そのことによって、多くの功徳を積むことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉ということは、積まないということだ』と如来が説いているからだ。それだからこそ、〈功徳を積む〉と言われるのだ。スブーティよ、もしも、功徳を積むということがあるとすれば、如来は、〈功徳を積む〉〈功徳を積む〉とは説かなかったであろう。」(p107)(19)

如来を、端麗な体を完成しているものとして見るべきではありません。それはなぜかというと、師よ、『〈端麗な体を完成している〉〈端麗な体を完成している〉というのは、実はそなえていないということなのだ』と、如来が説かれているからです。それだからこそ〈端麗な体を完成している〉と言われるのです。」(p107)(20・a)

如来は特徴をそなえたものであると見なしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来の説かれたことは、実は特徴をそなえていないことだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ、〈特徴をそなえている〉と言われるのです。」(p109)(20・b)

「かれらは生きているものでのなければ、生きているものでないものでもない。それはなぜかというと、スブーティよ、『〈生きているもの〉〈生きているもの〉というものは、すべて生きているものでないということだ』と如来が説かれているからだ。それだからこそ、〈生きているもの〉と言われるのだ。(p111)(21・b)

「『自我に対する執着とは執着がないことだ』と如来は説かれた。しかし、かの愚かな一般の人たちは、それに執着するのだ。スブーティよ、〈愚かな一般の人たち〉というのは、愚かな一般の人たちではないにほかならぬ』と如来は説いた。それだからこそ、《愚かな一般の人たち》と言われるのだ。」(p115)(25)

「その原子の集合体は多いのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、原子の集合体が実有であったとすれば、師は、《原子の集合体》と説かれなかったであろうからです。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれたかの原子の集合体は、集合体ではない』と如来が説いておられるからです。それだからこそ、《原子の集合体》と言われるのです。」(p121)(30・a)

「『如来が説かれた果てしない宇宙は宇宙でない』と如来は説かれています。それだからこそ《果てしない宇宙》と言われるのです。それはなぜかというと、師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、《全一体という執着》があることになりましょう。しかも、『如来の説かれた全一体という執着は、実は執着でない』と如来が説かれています。それだからこそ、『全一体という執着』と言われるのです。」(p123)(30・b)

「スブーティよ、誰かが、『如来は自我についての見解を説いた。生きているものについての見解、個人についての見解を如来は説いた』と説いたとしよう。スブーティよ、その人は正しく説いたということになるだろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。幸ある人よ、そうではありません。それはなぜかというと、師よ、『如来の説かれた、かの自我についての見解は、見解でない』と如来が説かれているからです。それだからこそ、《自我についての見解》と言われるのです。」(p123)(31・a)

「求道者の道に進んだ者は、すべてのことがらを知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。しかも、ことがらという思いさえも止まらないように、知らなければならないし、見なければならないし、理解しなければならない。それはなぜかというと、スブーティよ、『ことがらという思い、ことがらという思いというのは、実は思いでない』と如来が説かれたからだ。それだからこそ、《ことがらという思い》と言われるのだ。」(p125)(31・b)


ここに見られる論理の典型は、AであるとはAでないことであると如来が説かれたのでAと言われるのである、という形式をしている。
無理に記号で書けば
∀A∀x(N(A(x)=¬A(x))→A(x)) (1)
となろうか。(N( )は如来が〜と説いた)
(さらに細かく言えばこれは経典なので、AであるとはAでないことであると如来が説かれたのでAと言われるのであると如来が説かれた、となる。)
普通の論理学ではこれは成り立たない。*1
Aであることと非Aであることが等しいと言うのだから、ここでは矛盾律(¬(p∧¬p))が成り立っていない。矛盾律が成り立たないとは、排中律(p∨¬p)も二重否定(¬¬p=p)も成り立たないということである。
論理学には、排中律を認めない直観主義という立場の論理学がある。これはそれに似ている。
しかしこれは単に排中律が成り立たないような論理学を主張したいのではないのだろう。それを如来が説いたという点が重要なのである。如来が説いたとは、最高の宗教的真理においてはという意味である。つまり、最高の宗教的真理においては、AであるとかAでないとかいった単純な分別を超越するのである。
実は、これを解く考え方はこの経典の初めの方で提示されている。

「(如来は)特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。だから、特徴があるということと、特徴がないということとその両方から如来を見なければならないのだ。」(p51)(5)

と説かれている。Aであると見てはならずAであるということとAでないということの両面から捉えなければならないという考え方が示されている。AであるかAでないかということだけにとらわれるとAであることさえ見失ってしまうということである。

「求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけないからだ。
それだから、如来は、この趣意で、次のようなことばを説かれた―『筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして法でないものはなおさらのことである』と。」(p55)(6)

とも説かれている。法にも法でないものにも固執するなという。(筏の喩えとは、川を渡ってしまえば渡るのに使った筏はもはや不要になるように、法というのも彼岸に到れば不要になるような道具に過ぎない、ということ。)
法さえも重要でないという考えは次のようにも説かれる。

「『如来は法を教え示した』と、このように説く者があるとすれば、かれは誤りを説くことになるのだ。スブーティよ、かれは真実でないものに執着して、わたしを謗るものだ。それはなぜかというと、スブーティよ、〈法の教示〉〈法の教示〉と言うけれども、法の教示として認められるようなことがらはなにも存在しないからだ。」(p109)(21・a)

こうして法の存在も否定される。
分別にとらわれた思考を否定し法さえも否定する、このような考え方がすなわち「空」なのであろう。


金剛般若経はこのように「空」を説くのだが、「空」という術語は特に使われていない。そうした用語体系が成立する以前のものだからだろう。
空の論理を普通の論理学の枠組で基礎づけようとする試みも、インド仏教思想史の中には存在したようである。しかし宗教の論理と普通の論理学はやはり違うだろう。


金剛般若経の論理は、一見不思議な論理に見えても、分別にとらわれずものごとに執着するな、と解釈すれば案外当たり前のことを言っているのである。


(追記)
次のような前提を導入すればこの論理はすんなり解釈できるかもしれない。


(1) 空であるものごとはいかなる解釈も可能である。
(2) xは空である。
(3) ゆえにxはいかなる解釈も可能である。


(1)はそういうものと定義する、つまりどう解釈しようが空は空だから。(2)はあらゆるものごとは空だからというところから来る。
これでつまり何でも言えてしまうので、だから何、でしかないのだが。


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*1: (1)式は、A∧¬Aという矛盾式が導かれたので、矛盾が生じたら結論としてそこから何を導いてもいいという論理学の規則にしたがって正当化することも考えられるが、それはむしろ詭弁である。また、何でも言えるのは何も言ってないのと同じ無意味であり、だからこそ「空」である、という議論にしてみるのもそれなりに興味深いが、ここではそちらの方には話を進めないことにする。