論理的誤謬が起こるわけ
我々がよく犯す論理的誤謬として、後件肯定の誤謬と前件否定の誤謬がある。
後件肯定の誤謬とは、pならばqという条件と、qであるという前提から、pであると推論してしまう誤謬である。
前件否定の誤謬とは、pならばqという条件と、pでないという前提から、qでないと推論してしまう誤謬である。
論理的に正しい推論は、pならばqという条件とpであるという前提からqであるという結論を導く前件肯定と、pならばqという条件とqでないという前提からpでないという結論を導く後件否定である。
後件肯定も前件否定も、ただ論理的に間違いだというだけでは、そこで話が終わってしまう。なぜ我々はこうした誤謬を犯しやすいのだろうか。おそらく我々は論理よりも経験的事実の積み重ねで生きてきているからだろう。
後件肯定については、pのあとにqが続いて起こるという経験が多ければ、自然と、qがあったときにはpだったのだろうと考えるようになる。後件肯定的な思考が身に付く。結果から原因を考えなくてはならない場合は後件肯定になりがちである。
前件否定についても同様で、pがないときはqも起きないという経験が積み重なれば、そいうものだと考えるようになる。前件否定的な思考が身に付く。何かの事実の否定から次のステップに進むには前件否定になりがちである。
人間はそうした思考でもうまく生存してこれたし、日常ではむしろそれが有効に働くことも多かったので、自然とそういう思考をする方向に進化が強化されたのだろう。正しい論理を演繹としたら、間違った論理は帰納的と言えよう。つまり生存にとって演繹的思考よりも帰納的思考でもうまくいくし、せっぱ詰まった状況で何らかの判断をとっさに下さなければならない場面では帰納的推論に頼ることも必要だった。これらは経験的にうまくいくことが多かったのである。つまり確率的な問題である。
18世紀のイギリスの哲学者ヒュームは、帰納は単なる思考の癖に過ぎず合理的な根拠がないと言ったそうだが、これが本質ではなかろうか。思考の癖に裏付けがあるとしたら、人間がそうして生き延びてこられたという生物学的・歴史的事実にこそある。
論理的に間違いであっても、人間が生得的に持っている思考の癖ならば、それから逃れるのは意識的に訓練しないと難しいわけである。だから論理的思考の訓練が重要だとよく言われる。論理的に間違った推論でもうまくいくことが多かったとしても、その場しのぎにはなっても、特に複雑なことを考えなければならない現代では、読み違ったりそれが積み重なったりすれば破綻を来すことにもなるからである。
一方、学問の世界でも、観察された結果から原因を探す(最善の仮説形成する)ような推論が普通に行われている。アブダクションといわれる方法論であるが、厳密には後件肯定の誤謬である。しかしそれがなかったら新たな知見が何ももたらされることはないのだから、後件肯定を一概に誤謬だと退けてしまうわけにはいかないのである。