読書は目の機能を破壊すると認識しよう。近眼といわずに視覚障害といおう。

最も子供の身体を蝕んでおきながら規制もされず国挙げて推奨され子供にはほとんど強制的に押し付けられて逃れるすべが無いどころか拒めば社会から排除されることも覚悟しなければならないのが、読書=字を読むこと、であるのは間違いない事実である。読書で無数の子供が目に障害を負い続けている。
目に回復不能の障害を負わされながら、近眼というたいしたことのなさそうな言い方によって、人々は泣き寝入りさせられている。泣き寝入りさせられていることさえ自覚していないかもしれない。
学校の体育で、運動機能に回復不能の障害を負わされたら大ごとであり、ただでは済まされない。人権観念が未熟だった昔はそれさえもウヤムヤにされてしまったかもしれないが、現代ではそうはいかない。しかし、読書についてはそれと同じことがまかりとおっている。
近眼も運動機能の障害と同等に、視覚機能の障害とはっきり認定されるべきである。奪われた目の機能は償われなければならない。
あまりにもありふれている危険は、危険とさえ認識されず、受容するのが当然とさえ思い込まされてしまっているのが、この一事でも分る。
なぜこのように文字が暴威をふるっているのだろうか? ほとんどすべての産業が文字に依存して成り立っているから、産業の要請により、人は幼いうちから暴力的に文字を叩き込まれるのである。本を読むのは良いことだと洗脳されるといってもいい。
目を守りたいから字を読まないという選択をこの社会は許さない。
文盲とか無文字社会というと、文化が低くて未開のイメージを持つが、それはわれわれが文字依存社会を当たり前のものとして思い込んでしまっている先入観による。
言語の基本はあくまでも音だが、近現代は、言文一致・口語体といいながら、話される言語と書かれる言語は乖離しているし、書くように喋らないのは当然なのに、書かれる言語(文章語)を正しい言語とみるようになっている。
文字がどうしても必要ならばそれは人間の目に負担をかけないものであるべきである。現状で使われている活字のサイズは小さすぎて目に悪いので、もっともっと大きくして、活字はこれよりも小さくしてはいけないとする規制を設けることが望ましい。


(中学校での武道必修化により子供の怪我が懸念されるという件から思いついて書いてみた)