『日本語カートグラフィー序説』を読んだ。

遠藤喜雄『日本語カートグラフィー序説』(ひつじ書房)という本を読んだ。言語学の専門書である。
カートグラフィーとは統語構造の地図という意味で、普遍的な文の構造を地図のように詳しく記述するという試みである。カートグラフィーでは文の中で語(や形態素、イントネーションなども含む)の機能的範疇は必ずそれに対応する階層構造を持つと考える。従来の生成文法ではCP(補文句)という階層に纏められていたものを、カートグラフィーではさらに細かい階層に分かれていると考える。
さて、この本は非常に興味深く読んだのだが、言語学の本を読んで時々感じるのは、非文として挙げられている例文が、自分の感覚では正文と思われてしまうことである。自分の脳に障害があって言語を司る部分に異常が起きているのだろうか。とにかく、この本でも引っかかるところがあった。
(今日は疲れているので続きはあとで書く)


さて、引っかかった例文とはこの本のp.115にあった、


*小学校にも行けた。
*弁当まで用意しなかった。


である。非文とされているが、文脈上言えることがあるのではないかと思った。
最初の文は例えば、「小学校」を「大学」に替え、出来の悪い高校生がいて、成績は学年で最下位、大学進学など到底無理と思われていたのが、心を入れ替えて猛勉強したので成績もトップになったし大学に進学することもできた、というような文脈があれば、「大学にも行けた」と言えるのではなかろうか。
次の文は例えば、育児放棄の母親がいて子供の世話を何もせず、学校のことも放ったらかし、学校に持っていく弁当も用意しなかったというような文脈があれば、「弁当まで用意しなかった」と言えるような気がする。
どうだろうか。


日本語カートグラフィー序説

日本語カートグラフィー序説


(追記)
この本では、分っていないことについては、現在のところ未解決である、とちゃんと書いてあるのがよい。