『ベーシック コーパス言語学』という本を読んでいたら面白い記述がありました。
まず引用してみます。
Grefenstette(1998)は、普遍文法に対してコーパス文法を脱文法(no-grammar)と呼び、各々の研究者を共産主義と原理的資本主義に喩えます。普遍文法は、共産主義同様、多様な人間の営みの背後に統一的な理論がすべてと考え、異なる考え方を排除して自らを純化しつつ、正・反の弁証法によって個別的事実から統一的理論に到ることを目指します。一方、コーパス文法は、資本主義同様、コーパス=市場を「神の見えざる手」のような自己決定的理論が支配する場ととらえ、外部の理論でそれを侵すべきでないと考えます。そして、コーパス=市場を無限に拡張して、「コーパスにあるものを見る」ことで、得られる利益の最大化を目指すとされます。
石川慎一郎『ベーシック コーパス言語学』(ひつじ書房)p.192
コーパス言語学とは、コーパス(電子的に扱えるようにして大量に収集された実際の用例の言語資料)を統計的に分析して研究する学問分野です。
普遍文法というのは生成文法の考え方で、人間が生得的に脳内に備えている基本的な言語機能のことです。
ここで言われているのは、言語が個人に備わっているものなのか、社会の中に存在しているものなのかという言語観の違いでしょう。言語は人間が先天的に備えている言語能力の原理に律せられているというトップダウン的考え方と、それは社会の中での使われ方でしか決まらないとするボトムアップ的考え方の違いでもあります。
Grefenstetteという人が普遍文法を共産主義的に喩えたのは、生成文法の創始者であるチョムスキーが政治的にはリベラル左派であるためでしょう。だからといって生成文法が共産主義的だというのはかなりの飛躍があると思われます。
一方、資本主義的な言語観は生成文法以前の記述中心の構造主義の言語観に近いものと思われます。また、ウィトゲンシュタイン的「言語ゲーム」といった考え方にも近いのかもしれません。
生成文法ではコーパス言語学はそれほど活用されてこなかったいといいますから、このような発想が出てきたのかもしれません。
生成文法とコーパス言語学を比べると、生成文法では人間は文法に従って無限に新しい文を産出していく能力があるとされるので無限の対象が扱えますが、コーパス言語学だと対象はデータ量が膨大でも実際に使われた用例に限定されるわけで、扱う対象が無限ではない、という違いもあるのではないでしょうか。
- 作者: 石川慎一郎
- 出版社/メーカー: ひつじ書房
- 発売日: 2012/04/05
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