ら抜きことば、さ入れことば

「ら抜きことば」とは、受動と可能とを区別しようとする意識が働いて、たとえば、受動の場合「見られる」と言い、可能の場合「見れる」とするようになった言い方を指す。
五段活用動詞の「聞く」の場合、受動は「聞かれる」、可能は「聞ける」だが、一段活用動詞の「見る」の場合は標準的な言い方ではどちらも「見られる」となって形の上だけでは区別できない。
「聞く」(「kik-u」)の語幹を「kik」とすれば、「聞かれる」=「kik-areru」、「聞ける」=「 kik-eru」となる。
「見る」(「mi-ru」)の語幹を「mi」とすれば、「見られる」=「mi-rareru」=「mi-r-aeru」であるから、受動と可能を区別したいという意識が働けば、五段動詞からの類推で、可能を「見れる」=「mi-reru」=「mi-r-eru」とするわけである。つまり、受動は「-areru」、可能は「-eru」で区別されるのである。「-areru」が「-eru」になるのが「ら抜きことば」だとすれば、抜けているのは「ら」というより「ar」である。
「ら抜きことば」は「ことばの乱れ」と捉えられることも多いが、市民権を得て定着していくのだろう。(「ら抜きことば」は誤用だから絶対にいけないとする教育などでの強い矯正力がない限り)


一方「さ入れことば」とは、使役の、「聞かせる」を「聞かさせる」、「言わせる」を「言わさせる」とするような言い方である。
この場合、たとえば一段動詞「見る」(「mi-ru」)の使役は「見させる」(「mi-saseru」)となることからの類推で、五段動詞でも、「聞く」(「kik-u」)の使役を「聞かせる」(「kik-aseru」)ではなく「聞かさせる」(「kik-a-saseru」=「kik-as-aseru」)と余分な「さ」を挿入してしまうわけである。つまり厳密にいうと余分に挿入されたことになるのは「さ」ではなく「as」である。
一段動詞には、「見る」に対する「見せる」、「寝る」に対する「寝せる」、「着る」に対する「着せる」といった、使役ではないが相手に働きかける行為を表すことば(つまり自動詞に対する他動詞)があり、五段動詞の使役「聞かせる」「言わせる」などもそれと同じと解釈してしまうことによって、別に使役形を作り出そうという意識が働いて「さ入れことば」になるのだろう。
「ら抜きことば」とちがって「さ入れことば」は表現の区別に役立っているわけではないが(あるいはより強い使役といった意味的な違いの意識も萌芽しているかもしれない)、一段でも五段でも同じに揃えたいという指向なら「ら抜きことば」と共通している。
さ入れことばがエスカレートすると「見させる」「寝させる」などにフィードバックし「見ささせる」「寝ささせる」のような語形も生まれてくるかもしれない。


(追記)
「れ足すことば」といわれる現象もあるようだ。
「聞く」の可能を「聞ける」ではなく「聞けれる」、「見る」の可能を「見れる」ではなく「見れれる」のように、無くても済む「れ」を足してしまうのを指すという。舌がもつれたような言い方に感じるが、
「聞けれる」=「kik-ereru」、「見れれる」=「mi-rereru」=「mi-r-ereru」
と分解できるから、余分な「れ」が足されているというより、受動なら「-areru」、可能なら「-ereru」で揃えてしまいたいとする意識が働いたものとみなせるだろう。余分に足されているのは「れ」ではなく「er」であることも分る。無くて済む音をわざわざ増やすのは言葉の経済性を阻害するからこのような言い方は普及しないだろうと思われる。
さらに「見れれる」といった言い方の類推から「聞けれれる」といった言い方が現れている方言もあるそうだが、さすがにどうかと思う。


(追記2)
実際にそんな言い方をしている人がいるのか分らないが可能性としては「ら入れことば」も考えられる。受動は尊敬と形の上では区別できない。そこで例えば、「聞かれる」「見られる」では受動なのか尊敬なのか分らないから区別したいとする意識が働いて、受動か尊敬のどちらかに「聞かられる」「見らられる」のように「ら」を入れてしまうのである。さらに、れ足すことばに「ら」を追加して「聞けられる」「見れられる」のような言い方も現われて、どんどん語形が長くなっていくこともありえるのだろうか。


(追記3)
「見れられる」は案外使われているようだ。多分、ら抜きことばの「見れる」も受身の意味もある「見られる」もどちらもしっくり来ないと感じていた人が可能の意味をはっきりさせたいがために「見れられる」と言うようになったのだろうか。
また、受動の意味で「聞かられる」と言っている人もそれなりに存在するようだ。
さらに、可能の意味で「見らられる」と言っている人や、れ足すことばに更に「れ」を足した「聞けれれる」「見れれれる」と言っている人さえいるようだ。
これらの使用ケースはtwitterなどネット上でも観察することができる。あるいは方言なのかもしれない。


(追記4)
愛媛県宇和島方言では、潜在可能(する能力がある場合)を「〜れる」、実現可能(努力などして実現している場合)を「〜れれる」とするといった使い分けがあるという。