男根を切り落とした僧

初期仏教の時代、性欲に悩むある出家修行者が自らの男根を切り落としてしまったが、それを聞いた釈尊は「彼は切るべきものを間違えた」と言ったという。切り捨てるべき煩悩は心の中にあり、肉体の一部ではないのである。(この話は渡辺照宏『新釈尊伝』に書いてあったエピソードであり何の経典によるのかは不明)
しかし、現代的に考えると、「覚り」が心の変化ならばけっきょく脳内に何かしらの変化が起こることだから、脳も肉体の一部なので「覚り」はやはり肉体の変化である。
そこで修行のような手間をかけなくても、脳に何かしらの処置を施せば一気に「覚り」に到れるのではなかろうかという発想が出る。コリン・ウィルソンの『賢者の石』という小説には、脳内に特殊な金属の小片を埋め込むことで「目覚め」が起き意識が拡大し知能も飛躍的に増大して「超能力」のようなものさえ身に付けることができたという話があった。
仏教的な「覚り」とは違うが、薬物の服用によって、意識が拡大できるとか幸福感に浸れば世の中の平和がもたらされるとかいった安易な考えもそれだろう。しかし現実はそれには弊害の方が大きかった。


(追記)
人間の精神の中枢は脳だが脳だけで自立して存在しているわけではなく、脳は身体の他の部分からの影響も受けているので、そういった生理作用を考えれば「男根を切り落とす」のもあながちピント外れでもないのかもしれない。仏教で奨励されない苦行の一種だろうが。