〜にせよ、〜にしろ、という用法について

〜にせよ、〜にしろ、という用法について。


「泣いて頼まれたにせよ、これは譲るわけにはいかない」
「成功するにせよ、代償も大きいだろう」
「彼が強いにせよ、俺の敵ではない」
「この本にせよ、たいして参考にならないだろう」
のように仮定や条件をあらわす場合や、
「小沢にせよ谷垣にせよ、首相の器ではない」
のように例示・列挙する場合に、〜にせよ(〜にしろ)が用いられる。〜にせよ(〜にしろ)のあとに導かれる節は、例文のように否定的な意味や逆接的になることが多い。
「にせよ」(「にしろ」)は格助詞「に」に動詞「する」の命令形「せよ」(「しろ」)が付いたもので、用言の終止形や体言に接続するものであるが、なぜこの形がこのような文意をあらわすのに用いられるのだろうか。なぜ「する」の命令形が現れてくるのだろうか。日本語において命令形で句を止め次の文に続けるのも異例である。
徐々に考えていきたい。


上の例文を言い換えると
「泣いて頼まれても、これは譲るわけにはいかない」
「成功しても、代償も大きいだろう」
「彼が強くても、俺の敵ではない」
「この本でも、たいして参考にならないだろう」
「小沢でも谷垣でも、首相の器ではない」
のようにも表せる。


「その曲を聴くにつけ、いつもわくわくしてきたものだった」
のような場合の「〜につけ」は、格助詞「に」に「つける」の連用形「つけ」が付いてできた語である。
文をいったん止めて次に続ける場合はこのように連用形になるのが普通である。
「帽子をかぶり、外へ出た」「ご飯を食べ、お茶を飲んだ」「よく学び、よく遊べ」
などの、ごく当たり前の言い方である。
ならば、「〜にせよ」も「〜にし」(「に」+「し」(「する」の連用形))である方が自然なのだろうか。


接続の形の問題はひとまず置いて、「〜にせよ」の文にはなぜ動詞「する」が使われるのだろうか。
例文の
「泣いて頼まれたにせよ、これは譲るわけにはいかない」
の前節を取り出し
「泣いて頼まれたにする」
と言ったらどうだろうか。何か不自然に感じる。
「泣いて頼まれたとする」
となるのが自然だろう。これにより全文を言い換えると
「泣いて頼まれたとする。しかし、これは譲るわけにはいかない」
となるだろう。
ここで「とする」は仮定や条件を提示する意味があると分った。
この文はまた
「泣いて頼まれたとしても、これは譲るわけにはいかない」
とも言える。
つまり「〜としても」が「〜にせよ」(「〜にしろ」)に置き換えられるルールがあり、その仕組みは何かという問題になる。


句の末の動詞・用言は、順接が続く場合は連用形で止め、逆接が続く場合は命令形で止めるルールなのだろうか。


「何はともあれ、やるべきだ」(*)
のような文は逆接的な意味があるが、ここでの「あれ」は、仮定形、命令形のどちらだろうか。仮定形であればまさに「あれば」と置けるはずだが
「何はともあれば、やるべきだ」
という文にしたらおかしいので、この「あれ」は命令形であると考えられる。
辞書の説明では、「ともあれ」は格助詞「と」+係助詞「も」+「あり」の命令形「あれ」とされる。
この例からも、あまり頻繁に使われる用法ではないが、逆接的な接続の場合は、文を命令形でいったん止めてつなげていくルールがあるらしいことが分った。
これにより、仮定や条件を示し逆接的な意味を表す文における、「〜にせよ」「〜にしろ」という用法の文法的根拠が見えてきた。


普通の動詞とやや性質を異にする動詞「する」「ある」がここでともに同じく命令形をとるのは偶然だろうか。日本語の性質そのものに関わるさらに根本的な理由があるのだろうか。
ここではそれはまだ分らない。


((*)の「何はともあれ」は「何はともあれど」または「何はともあれども」の「ど」「ども」が省略された形、「ど」「ども」は仮定形に付く、と考えることもできそうだと思ったのだが、そこは保留にしておく。)


「私の身体がどこにあれ、心は常に貴方を思っている」
という文の「あれ」は何形だろうか。考えてみよう。


(続く)
命令を意味しなくても命令形で文を止める用法について


(解決編)
〜にせよ、〜にしろ、という用法について その2