男は男、女は女、という幻想の崩れる時

記者の目:性分化疾患性同一性障害=丹野恒一


 「男の子か女の子か、どちらにしますか」。子が生まれた直後、医師にそんな決断を迫られたら、どう答えることができるのだろう。

 染色体やホルモンの異常が原因で外見からは性別が判断しづらい赤ちゃんが数千人に1人の割合で生まれている。その事実を知ったのは2年余り前だった。我が子3人の出産に立ち会った私は、子どもの性別は出産前から決まっていて、誕生した時には確かめるだけだと思い込んでいた。だが幸せに包まれるはずの瞬間に医師の一言で目の前が真っ暗になり、親族や知人からの祝福の電話にも出られない親たちがいる。しかも医療関係者の知識が不十分だと、適切な検査もなく性別が決められてしまうことさえある。


 ◇自分は男?女?苦しんで自死
 性別は染色体の型がXXかXYかで決まると考えられがちだが、性器や性腺(卵巣・精巣)が女性か男性かで一致していなかったり、染色体もXだけだったり、XXYといった型で生まれてくる子どもがいる。成長後も、男女どちらにもはっきり属することができない体と感覚に苦しむことが少なくない。

 こうした子どもはずっと前から生まれていたにもかかわらず、社会の偏見の中で本人や親は隠し続け、医療界もメディアもタブー視してきた。日本小児内分泌学会はこれまで使われてきた「半陰陽」や「両性具有」という言葉に蔑視(べっし)するような響きがあるとして「性分化疾患」に統一したが、それもわずか1年前のことだ。

 私は当事者や家族を一人一人訪ね、昨秋からくらしナビ面で連載「境界を生きる」を執筆している。長く声を上げられなかった人の話を聞いていくにつれ、自分の中にあった「性別」というものに対する固定観念は崩れていった。

 性分化疾患を持って生まれてきた子どもたちは、いつ自分の疾患を知るべきなのか。それだけでも難しい問題だ。何も知らず男の子として育ち、ある日突然に初潮が来たり、女の子として育って成長後に卵巣や子宮がないと知ることがある。恋をする年齢になり、事実を知った直後に自ら命を絶った大学生もいた。

 性別の境界にいるのは彼らだけではない。体の性別がはっきりしていても、心と一致せず苦しむ性同一性障害は、1000人に1人の割合ともいわれる。男女別の生活を強いられる学校に通えなくなったり、誰にも打ち明けられず自傷行為を繰り返す子どもたちもいる。

 連載をこう評した家族がいた。「取材に応じられるのは壁を乗り越えられた人たちだけ。声を上げられない人が大勢いる」。取材を申し込んだところ、こう断られたこともある。「あなたのお子さんが同じような状況のとき、知る必要のない人たちにまで知ってほしいと思いますか。世の中には知らなくていいことだってあるんです」。心も体もほぼ女性なのに、ホルモンの異常で外性器が男性化してしまう疾患の子の母親だった。


 ◇自分らしく生きたいだけ
 他にも耳を離れない言葉がある。心は女性なのに体が男性で苦しむ18歳の学生を取材した時のことだ。安全性を無視して個人輸入した女性ホルモン剤を服用しているが、外見の変化は期待ほどでないという。「今の姿のままで女性として生き始めても、性的倒錯者としか思われない」。自分らしく生きたいだけなのに、なぜ自らをそんなふうに表現しなければならないのか。返す言葉が見つからない私に、学生は痛々しい決意を示した。「それでも生き抜けるよう、強くなりたい」

 連載にはこれまでに100通近い反響をいただいた。共感や体験に交じり、55歳の男性会社員から批判的な感想が届いた。「男に生まれた以上は男として生きるよう身に着けさせるべきだ」。理由は「手術で性別を変えても、母親にはなれないから」という。こうした考えもまだ根強いのだろう。

 私自身は取材を通して、性別の境界を生きる人々は決して特別な存在ではないと思うようになった。性には多様な形があり、体の性別があいまいなこともあれば、心の性別が体と逆になることもあり、好きな性が異性であったり同性であったりもする。私を含む多数の人は、その数限りない組み合わせの中から、たまたま典型的な形でそろっただけの存在なのだ。

 「知らなくていいことがある」「性的倒錯者とみられてしまう」。家族や子どもたちにそう思わせているものは何なのだろう。人間は男女に二分される。そんな常識を問い直す先に訪れるのは無秩序か、それとも誰もが生きやすい社会か。私は後者だと信じたい。(生活報道部)


毎日新聞 2010年9月3日 0時07分

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100903k0000m070125000c.html


男は絶対に男であり、女は絶対に女である、という幻想は、こういう事実によってもろくも崩れてしまいます。その幻想の上に成り立っていたのが、男は男らしくせよ、女は女らしくせよ、そして、男女の固定的な社会的役割分担、という考え方で、いわば幻想を前提にした幻想というべきものでした。この幻想も崩れていきます。
引用文中の55歳男性会社員氏の感想は、永年縋ってきたこの幻想が崩れることへの恐怖の叫びなのでしょう。


ただ、この引用文にも気になる点はあります。
半陰陽」や「両性具有」という言葉に蔑視の響きがあるとしていますが、そうでしょうか。これらの語にはむしろ宗教的荘厳さが感じられます。近代の固定的男女観にとらわれる以前の、人間の率直な崇拝感覚を表しているような。「両性具有」は古くは「聖」でした。
蔑視でも聖視でもなく、特別視はせず、どこにでも起こり得る当たり前のこととして受入れよう、という趣旨は分ります。それにしても「性分化疾患」という「術語的」な言い方がかえって病的な印象を受けてしまいます。
そして、男女どちらかの性別に決める、という時点で、まだ男女の枠という観念からは自由になっていません。
こういう問題を提起しておきながら、「性的倒錯」については何か不道徳を表すような表現に使っているのもどうか?


もちろん、性別が前提になっている現実社会においての当事者の苦しみを思えば、第三者が軽々しく言えることでもないのも分っています。
個人の意識変革とともに社会的に克服していかなければならない課題です。