人命にかかわる損害賠償における逸失利益の問題点を考えてみよう。
逸失利益とは被害者が被害を受けたことで得られなくなった収入などの利益を指し、それが賠償として加害者から支払われる。
逸失利益の考え方を突き詰めればその値がマイナスとなることにさえなりうるという指摘は、以前取り上げた(→*)二木雄策氏の著書『交通死』でもなされている。もし、介護が必要な障害者あるいは病人などで稼得力がない人が被害者なら、被害者の死によって今後遺族の介護負担がなくなるので、その分遺族は「得」をしたことになるから、逸失利益の値はマイナスとなって、すなわち遺族の方が加害者に支払わなければならないとなる。
そんなことは実際にないとしても、賠償は逸失利益で行うという考え方が本質的に持つ非人間性・反社会性の一端を示しているといえる。(→*1)
かつて、被害者が幼児や子供の場合、就業可能年齢になるまでの養育費分が逸失利益から割り引かれていたのは、まさに、養育費がかからなくなった分だけ遺族が「得」をした、という考え方でなされていた。故意であれ過失であれ人を死亡させ、被害者遺族の側にも、このような「得」が発生したとみたのである。(最終的に昭和53年の最高裁判決で養育費の控除はすべきないとされた)
逸失利益から生活費の控除は認められている。生きていたらかかったであろう生活費を利益をあげるための経費とみているからなのだが、こうして生活費を差し引くということは、人の命を奪っておきながらそれによって被害者の生活費が不要になったといっているわけで、ひどい考え方である。
たとえば身よりのない老人を死亡させたら逸失利益も生ぜず慰謝料も必要なく金銭的償いは0で済んでしまう。
人の命に差はないのに、賠償に関して人の命に値段が付けられることは、このようなグロテスクな意味を持っている。
男女平等の現代でも、逸失利益を求める際には現実の男女の経済的不平等が前提として採用されてしまう。結局、これらはみな、賠償額をいかに少なくできるかという加害者側の立場に立っているわけである。加害者の人権を尊重しているのでもなく、実際は金を払う側(保険会社など)を優遇する措置なのである。
人身にまつわる賠償において、逸失利益を中心にするのは、定着してしまっているとしても、望ましい方式ではないということだ。
人身にかかわる賠償が金銭で行われるのが仕方ないにしても、逸失利益を基本にするのではなく、根源的な命の値段としてすべての人共通に一律「○億円」のように定め(この額を決めるのも難しいだろうが国富からなにかしらの相当額を導けるかもしれない。基本的人権に基づいて享受できたはずの権利の喪失分ととらえることもできる。「逸失利益」以前に「逸失権利」を置くのである)、逸失利益はさらにその上積み分として考えるべきであると、私は思う。
*1
このようなケースでの逸失利益は通常0とされる。
参考文献
- 作者: 二木雄策
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/08/20
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