言語学の大ざっぱな流れ
19世紀に比較言語学が誕生して、言葉を科学の対象として扱うことが始まった。
そこでの言語観は、言葉とは人間の意志にかかわりなく成立し、一定の法則にもとづいて成長・発展・衰退・死滅するとし、さまざまな言語の比較によりそれらの縁戚関係を明らかにし、「祖語」を再建することが比較言語学であった。
比較言語学を確立したシュライヒャーは、ヘーゲル的な無機から有機へという発展観を下敷きに、孤立語を結晶のような無機物とみなし、膠着語、屈折語と次第に構造が複雑な言語へと発展していくとした。言葉は生命体になぞらえられ、ダーウィンの進化論がさらにそれに理論基盤を与えた。(時系列的にはむしろダーウィンの進化論が言語発展説から示唆を受けた形跡もある。)
比較言語学の中で最も先鋭的な青年文法学派は、(言葉の)音変化は例外のない法則に従うとし、すなわち人間の恣意を排した厳密な自然科学志向をとった。一方、音変化(言語変化)は人間の意志にかかわりなく行われるとしながらも、言語は人間の心的作用であるとした。これを矛盾でなくするためには人間の心的作用もまた自然科学の法則のもとにゆだねるしかなかった。
言語は人間が意識的に工夫して作り出したという意味の「文化」ではない。「文化」「文明」以前にすでに「言語」があった。言語は「人工」ではあるが「自然」に近い。
シュライヒャーは「諸言語の形成はまず先史時代に行われ歴史時代になって言語は没落した。」といった。(言語が文明の道具として使われると人間の意志が言語に働くようになるから)
現代言語学の基礎を確立したソシュールは「言語にあっては何もかも心理的」という。また「言語は社会的事実」ともいう。
ソシュールが目指したのは「それ自身のためのそれ自体の言語学」であった。
20世紀になって、アメリカ構造主義言語学は言語から心の問題を排した。言語を研究するにあたって、対象はまず音として観察されるものであった。それ以外に踏み込むことを慎重に避けた。アメリカ大陸の先住民の未知の言語を研究するためには、既知の言語の先入観にとらわれず、まず音から観察していくことが重要であった。
一方、言語とは何よりも「意味」を伝達する手段であるが、「意味」は心的な要素を多分に持つので、アメリカ構造主義言語学は言葉を扱いながら「意味」を論じられないジレンマに陥った。何かの「意味」が先にあるのではなく、アメリカ構造主義言語学(行動主義)で意味とは、「話し手が発した音声」により「聞き手が示した反応」の観察により、説明されなければならないとした。「意味」により機械的反応が起こるという前提であった。
構造主義的に、いくら多くの未知の言語を音を頼りに記述し、文法(構造)を記述していっても、言語とは何か? という問いには答えられない停滞状況に言語学は陥った。
そこに現れたのが、チョムスキーの生成文法だった。チョムスキーは言語とは人間が生得的に備えている脳の機能であるとした。そこはあくまでも人間の言語能力についてであって、個別言語の起源が一つであるか否かは問題にしていない。
言語学の流れには、
言語の
普遍性重視←→多様性重視
共時性←→通時性
社会性←→自然性
といった対立する概念が複雑に絡み合っている。
参考文献
田中克彦『言語学とは何か』 岩波新書
田中克彦『ことばとは何か』 講談社学術文庫
など。
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(追記)
言語の過去を遡るのに現代では遺伝子の変化を解析する分子生物学の手法が応用されたりしているので、言語=生命体のアナロジーはなお有効性を持っていることになる。
つまり言語はミームの一種だからである。