「来る」は非対格動詞
自動詞のうち、意図的な動作を表すものを非能格動詞、意図的でなく対象が被る変化を表すものを非対格動詞という。
たとえば、「走る」は非能格動詞であり、「燃える」は非対格動詞である。
では、「来る」はどちらだろうか。一見、意図的な動作を表しているようにも思える。
非能格動詞か非対格動詞化をテストする方法がある。動詞に「たくさん」を付けて意味をみればいいのである。
非能格動詞の「走る」では
「子供がたくさん走った」
の「たくさん」が表すのは走った量(距離や時間など)であり、「たくさん」は主語の「子供」にかかるのではない。
非対格動詞の「燃える」では
「紙がたくさん燃えた」
の「たくさん」が表すのは燃えた紙の量であり、「たくさん」は主語の「紙」にかかっている。つまり「たくさんの紙が燃えた」という意味である。
動詞に「たくさん」を付けた時、動作の量を表すのが非能格動詞、対象の量を表すのが非対格動詞である。非能格動詞と非対格動詞ではこのような違いがある。
「来る」では
「人がたくさん来た」
の「たくさん」が表すのは来た人の人数であり、「たくさん」は主語の「人」にかかっている。つまり「たくさんの人が来た」という意味である。これからすなわち「来る」は非対格動詞であることが分る。自動詞の「来る」に対応する他動詞(たとえば「燃える」に対する「燃やす」のような)はないが、「来る」は非対格動詞である。
(追記1)
文脈次第では、「子供がたくさん走った」は「たくさんの子供が走った」と解釈できないこともないかもしれないが、とりあえずその点は措いておくことにする。動作の量を表すことができるという点が重要なのだから。
(追記2)
他動詞「食べる」では、
「ご飯をたくさん食べた」
の「たくさん」は、目的語である「ご飯」の量を表している。
つまり、非対格動詞の主語は、潜在的には他動詞の目的語に相当することになるのである。
(追記3)
このテストによると「眠る」は非能格動詞である。
「子供がたくさん眠った」
というとき、「たくさん」は眠った量(睡眠時間)を表しているからである。
意図して眠ることは難しいかもしれないが、「眠る」は非能格動詞である。
(追記4)
このテストでは主語が不定であるほど、非能格動詞であっても、「たくさん」が主語の量を表す解釈が可能になりやすいようだ。
「太郎がたくさん走った」
というとき固有名詞の「太郎」は複数であるはずがないので、「たくさんは」は主語の量としては解釈できない。
「子供がたくさん走った」は、「子供」の不定の程度に応じて「たくさん」なのが「子供」であるという解釈を得ることも可能になる。