「楽しい過ぎ」「嬉しい過ぎ」といった言い方について

本来「楽し過ぎ」「嬉し過ぎ」「面白過ぎ」などと言うところを、「楽しい過ぎ」「嬉しい過ぎ」「面白い過ぎ」などと言う用法が現れてきているようだ。そのような事例をネットで結構観察することができる。
これらは形容詞終止形にそのまま「過ぎ」をくっつけているわけである。こういった言い方をする人は、本来の「形容詞語幹+過ぎ」という造語法の意識が薄れているのだろう。この方が形容詞語幹を切り出す手間が省けるから簡単と言えないこともない。そもそも形容詞語幹という意識も薄れているのだろう。
こうした言い方が広まって定着してしまうのか、一部の人の誤用で終るのか、将来的にどうなるかは分らない。


(追記)
同様に「大きめ」「小さめ」「緩め」と言うところを「大きいめ」「小さいめ」「緩いめ」と言うようなケースも観察される。
これも「形容詞語幹+接尾語」という造語法の意識が薄れていると思われる例である。


(追記2)
さらに、「楽しいかった」「嬉しいかった」「面白いかった」、「楽しいくない」「嬉しいくない」「面白いくない」などと言っているケースも見られる。
形容詞語幹という意識が薄れているのではないかと上では書いたが、形容詞終止形自体が新たな「語幹」として認識されるようになってきたのかもしれない。「楽し」「嬉し」「面白」といった形容詞語幹が不安定に感じられるから、「楽しい」「嬉しい」「面白い」という終止形を「語幹」として使ってしまうのではなかろうか。
「楽し」「嬉し」「面白」といった「形態素」(単語よりも小さいレベルで意味を担う最小単位)が存在しているという無意識の認識が薄れているのかもしれない。(形態素という言葉は知らなくてもそうした単位があると無意識的に認識しているからこそ言葉が使えるのである。)つまり、形容詞終止形そのものが新たに「形態素」となってきたという変化とみなせる。


このような言い方が一般的になるということは、すなわち形容詞の「活用」が消滅する方向に変化するということである。


どうも書き足し書き足しでまとまりが悪くなったので、あらためて書き直してみる予定。