〜にせよ、〜にしろ、という用法について その2
前に書いた「〜にせよ、〜にしろ、という用法について」で、疑問のまま残しておいたことの解決編として、再び取り上げる。
「〜にせよ」「〜にしろ」「ともあれ」「〜であれ」などの文法的性質をもう少しきちんと考察してみたい。
これらは学校文法的な枠組ではうまく説明できず、せいぜい、慣用句的な用法とでもいうしかない。
もっと詳しく考えるために、まず、モダリティ(modality)=法性、とムード(mood)=法、という概念から述べる。
モダリティとは文が描写している事態に対する語り手の心的な態度をあらわす文法的範疇のことで、認識の「〜だろう」「〜かもしれない」や義務の「〜すべきだ」「〜してもよい」などであり、ムードとはモダリティを語形変化で表す方法のことをいう。日本語だと馴染がないが西洋語の直説法・接続法などがこれである。
モダリティやムードが表す事象はまだ実現されていない仮想的な状況とみなすこともできる。命令法も聞き手に対して陳述内容の実現を要求する話し手の態度を表すムードの一つである。
「する」は仮定の条件を示すための「仮定動詞」として使われる。
動詞の止める形には、終止形・連用形の他、命令形も用いることができる。
ここまで前置きしたところで、主題にいこう。
「〜にせよ、〜にしろ、という用法について」に例として挙げた
「泣いて頼まれたにせよ、これを譲るわけにはいかない」
という文の「泣いて頼まれたにせよ」は、以上の前提から、「(話し手が)泣いて頼まれた」という「仮想的」で「仮定的」な条件を想起せよと、話し手が聞き手に要求する意味をもっていることが分るのである。
「〜にせよ」「〜にしろ」は、そのようにして仮定条件を表すわけである。
同様に、「ある」は仮定ではないが物を提示する動詞であり、
「何であれ、やらないよりはましだ」
の場合も仮想的な「何」かを設定することを表しているわけである。
仮定条件のあとには順接が続くこともあれば逆接が続くこともある。
これで一通りの説明にはなったろう。
日本語母語話者はいちいちこのような過程を意識しながら言葉を使っているわけではなく、自然に身に付いた通りに言葉を使う点では、慣用句的であるとも言える。