久野翮『日本文法研究』の一節 「〜過ぎだ」について

久野翮『日本文法研究』(大修館書店)という本を読んでいたら、第9章にこういう記述があった。


動詞には状態的[+状態的]なものと非状態的[-状態的]なものがあって、[+状態的]な動詞は現在の状態を表し、[-状態的]な動詞は未来の動作・現在の習慣的動作・普遍的動作を表す。
[+状態的]動詞はつまり形容詞・形容動詞に近い性質のものであり、例として、「解る」「出来る」「要る」「ある」などがある。可能を表す「れる」という助動詞が付いたものも[+状態的]である。
[-状態的]な動詞の例は、「来る」「書く」「死ぬ」などがある。
ところで、補助形容動詞「過ぎだ」は[-状態的]な動詞にしか付かない。つまり
a . 太郎は勉強し過ぎだ。
b . 太郎は太り過ぎだ。
c . 太郎は何でも知り過ぎだ。
d . 太郎は花子に本を読ませ過ぎだ。
とは言えるが、
e . *太郎はお金が要り過ぎだ。
f . *太郎は日本語が出来過ぎだ。
g . *太郎は何でも解り過ぎだ。
h . *太郎は日本語が話せ過ぎだ。
とは言えない。(*は非文を表すマーク)


というのだが、この例文で非文とされているものでも、文脈上言えることがあるのではないかと思った。
eの場合、たとえばある月が普段の月よりも出費が多くかかりそうだと分かって
「今月はお金が要り過ぎだ。」
ということができそうだ。
gの場合、たとえば太郎がものすごく察しの良い人間で、こちらが隠して置きたいことがあってポーカーフェイスで話しているのに、こっちの隠している意図をずばずば見抜いてしまうような時
「太郎は何でも解り過ぎだ。」
といったり(思ったり)することはありえるのではなかろうか。
上の例文にはないが、しなければならない仕事が大量にある日に
「今日は仕事があり過ぎだ」
といったりするのもそう不自然ではないように思う。
ここで、これらの場合の「要る」「解る」「ある」は[+状態的]なものではなく[-状態的]、つまり状態でなく動作を表していると解釈すれば、上の記述の例外とは言えないことになるわけだが、はたしてどうであろうか。この場合の「要る」「解る」は確かに動作とみなせないこともないが、「ある」を動作とみなすのは難しそうだ。なにかうまい説明がつけられるだろうか。


日本文法研究

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