ストレート・エッジの概念と若者の離れ現象及び「草食化」について
ストレート・エッジという概念がある。
肉体的精神的な快楽や享楽を求めない(特にミュージシャンにおける)ライフスタイルのことで、一般に、飲酒喫煙・薬物・賭博・快楽目的の性行為を行わないことを指す。
これで分るように、陳腐なロック的観念「セックス・ドラッグ・ロックンロール」へのアンチテーゼである。
ストレート・エッジはワシントンDCのハードコアバンドMinor Threatの曲「Straight Edge」(1981年)に由来し、その歌詞の一節「Don't Smoke,Don't Drink,Don't Fuck」の実践に象徴される。
ストレート・エッジの「根柢のコンセプトを一言でいえば、他人に文句を言うのであれば自分から正そう、みたいなことだと思う。政治体制だの権力がどーのこーの言う前に、てめえ自身がビシッとやらねぇとエラソーな主張も無に堕ちる。」(『パンク・ロック/ハードコア史』行川 和彦 ストレート・エッジな生き方)、が分かりやすいだろう。
ロックだパンクだ社会批判だ革命だと言ったところで、「だらしない大人」と同じように飲酒喫煙や薬物や自堕落な性行為、博打、フリーセックスと言えば聞き良い乱交、などに耽っているようではどうしようもないと言うことである。
ロックとドラッグとセックスでラブ&ピース的能天気なフラワームーブメント(もはや老人的懐古趣味だ)からの決別でもある。
放蕩の美学なんて認めない。
ここには、マッチョ主義の否定も垣間見える。マッチョ主義ではないが甘さは感じられない硬派である。まさにハードコアだ。
仕事や勉強をきちんとやった上で物を言いましょう的「優等生」の生き方とも違う、生活そのものの根本変革である。
快楽主義の否定は、あたかも修行僧のようであり、実際ここに、生産行為にたずさわらない、金銭に触れない、歌舞音曲に近づかない、を加えると、原始仏教の出家者とほとんど変わらなくなるが、音楽などの表現行為を行ったり、現代生活を行うにも、そこまでの徹底は難しいだろう。
ストレート・エッジは、期せずして、○○離れと言われ、旧世代の人々が夢中になった享楽的娯楽的なもの(飲酒喫煙・博打・風俗、その他昔の大人が夢中になった趣味など)からどんどん離れている現代日本の若者の価値観・ライフスタイルともかなり接近してくる。(○○離れのお金がないという理由は措く)
ストレート・エッジも○○離れも、理解できない者からそれで何が楽しいの? と聞かれても、実践者はそれが楽しいまたはそうでありたいからそうある、となってくるだろう。
若者の○○離れ、を包括できる概念として最近よく言われるキーワードの「草食化(草食系)」がある。草食化とはすなわちマッチョ的行き方の否定である。ここからも、ストレート・エッジにつながっていく。
「大人」は「青年(若者)」にはもはや積極的に勧めてきて「堕落」「悪の道」に踏み込ませようとするから、あえて禁欲・潔癖を通すのが何よりの体制への抵抗ともなる。未婚少子化も結果的に社会への反抗である。
ただし、ストレート・エッジは、「宗教や同調圧力への異議の表明であったにも拘わらず、フォロワーたちは教条的・宗教的に受け取ってしまい、酒を飲んでいる観客に暴行が加えられるなど、はからずもストレート・エッジの思想が新たな同調圧力を生む結果と」(Wikipedia)なった、というから、象徴的行為であるストレート・エッジを絶対であるとしてしまえば弊害も現れる。
ストレート・エッジのライフスタイルはファシストに近くなる危うさも孕んでいる。ヒトラーは菜食主義で飲酒喫煙もやらなかったし多くのファシストに同様の逸話がある。(実際はどこまで本当か分らないにしても)
ロックミュージシャンには菜食主義者は多いようだが、ストレート・エッジにまで進んでいる者は少なく、「日本でもパンクロッカーよりもノイズアーティストにストレート・エッジが多い(秋田昌美、灰野敬二等がそうである)。」(Wikipedia)
ポピュラー音楽は快楽音楽だから、即「セックス・ドラッグ・ロックンロール」と直結しなくても、快楽要素前提の存在であるゆえ、ロックよりも快楽否定的なノイズミュージシャンの方がストレートエッジに親和性が高いのだろう。