客観性が言語に依存するとしたら

客観性がそれを表現する言語に依存するとしたら(言語Aと言語Bで厳密には同じ事象を表現できないことがある。どちらが客観的に表現できるかではなく厳密に同じ意味にならないということ→*1)、そして「客観性」が「中立性」の前提であるとする志向が突き進めば、言語の多様性自体が邪魔であり排除すべきものとされていくのであろうか。そこにおいては(すくなくとも何か客観的なことを述べるための)言語は一つに統一すべきであるとなっていくのであろうか。かつて西洋には学術語としてのラテン語があった。国連にもいくつかの公用語があり、それ以外の言語は正式に使われることはない。
実際には、言語間の「翻訳」によっての多少の曖昧さやずれが生じることは織り込み済みで人間の活動が行われているわけだが、客観性を危うくするものとして、そのような曖昧さを許容できないとする立場や厳密志向に社会が向わないとも限らない。そして実質的に(おそらく)英語のみが国際公用語とされていくのであろうか。


*1
極端に言うと、一つの不変の事実があり、言語によって表現の仕方が違うのではなく、言語の数だけ「事実」が存在し、同一言語であっても表現の仕方を変えればもはや厳密には同じ「事実」を表してはいない、と考えてみることもできる。