ラテン系が陽気である理由—宗教改革とはなんだったか

西洋人について、ラテン系(イタリア・フランス・スペインなど)=陽気・いい加減、ゲルマン系(ドイツ・イギリス・北欧など)=陰気・謹厳実直、といったイメージががなんとなくありますよね。
でも、宗教で考えると辻褄が合わないと思いませんか。
ラテン系の国はカトリック、ゲルマン系の国はプロテスタントカトリックは重い伝統があって教会が社会を厳しく支配しているがプロテスタントは教会支配から人々を解放したととらえると、教会に支配されて厳しく戒められているラテン系の国の方が陰気で、教会から自由になったゲルマン系の国の方が陽気だ、となるはずでしょう。
しかしそうではなく逆になっているわけです。
マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言っているのですが、すなわち「宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ。しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだった」と、そして「宗教改革者が熱心に非難したのは、人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろ少なすぎるということだった」と。
つまり宗教改革が目指したのは形式化し陳腐化したキリスト教の革新というよりも復古であり初期の厳格な精神に帰れということだったのです。ある種の原理主義です。そこで宗教的戒めはより厳しく人々に課されることになったのです。
現在、イスラム原理主義が台頭しているイスラム諸国で宗教支配が強まっているのと同様でしょう。
だから、カトリックのラテン系の国の方が実際は宗教支配がゆるくて社会が陽気であり、プロテスタントのゲルマン系の国の方が宗教支配が厳しくて社会が陰気になると、とらえることができるわけです。信心深い深くないとはまた別に、社会の雰囲気がそのような色彩を帯びるということです。
アメリカは基本的にプロテスタントピューリタンの国ですから陽気なようでも宗教的な面ではクソ真面目な人が多いでしょう。ファンダメンタリストが生まれてくる土壌が充分あります。
日本の鎌倉新仏教もそう、大乗仏教もそうなのですが、宗教における改革運動は既存宗教が形骸化しているのを批判すると、より純粋に根源的なものへと向っていく形で現われてくるのです。


(追記)
トラックバックで反論を送ってくださった方がいらっしゃいますが、この項では実際は「ラテン系が」ということよりも「宗教改革」の方が主題ですので、タイトル上誤解を招いたかもしれません。

さて、宗教の支配力が社会の陽気陰気といった雰囲気をなにがしか左右してくるならば、「無宗教」と公言して憚らないような日本人の社会が「陽気」とは到底いえないのはおかしいのではないか? となるわけですが、日本における宗教改革は鎌倉新仏教よりも明治維新の方がさらに影響力を持った宗教改革であり、そこで日本人に一見宗教として自覚されなくても厳しい「宗教的戒め」が課されることになった、ととらえると結局は明治時代からの延長線上にある現代日本社会の性質が分ってくるのではないかと思われます。
この問題はまたあらためて触れようと思います。