小乗仏教(上座部仏教)に目覚めても他者救済を志向しだせば大乗化する
いま、大乗仏教は後に歪められて変質した仏教であり、小乗仏教(上座部仏教)こそが真の仏教であると認識し小乗仏教に帰依したとします。それは良い。しかし、この素晴らしい上座部仏教の教えで世の中を救いたいという心が働けば、それはすでに大乗化の一歩ではないでしょうか?
仏教は出家して四諦八正道に基づき修行して仏を目指す教えが根本です。
その仏教の根本に最も近いのが小乗仏教(上座部仏教)です。南アジアの上座部仏教の僧侶は日本の僧侶のように俗人化していず、厳格な出家生活を送ります。その姿はまことに清々しいのです。
けれども、今、上座部仏教の教えによって世の中を救いたい人も、皆に出家を勧めようとする訳のではなく、上座部仏教的な考えの何かを応用して世の中に役立てたいとするのなら、やはり大乗化に踏み出しているのです。つまり人々を救済する手段としての方便志向です。
堕落俗化頽廃した大乗仏教の現状に嫌気して、真の仏教としての小乗(上座部)を志向すれば、そのような問題意識が強ければこそ、小乗を求めても大乗志向になっていき、結局一回りして大乗に戻り、つまり仏教の原点に帰ったところから、仏教発展史を追体験していくことになるわけです。
明治時代、大乗非仏説が広く知られるところとなり、海外に小乗の研究に出かけたり小乗に宗旨替えする僧侶も現れました。河口慧海は語学学習のために師事したそのような僧侶から小乗を強く勧められても自分は広く衆生を救いたいから大乗に留まると断言し、お経の原典を求めてチベットに旅立ちます。
河口慧海は後半生は還俗し、仏典研究のかたわら、在家仏教の普及につとめました。