信仰の問題

宗教的信仰なら、自分は仏教を信仰しているはずだった。
しかし、お前の信じているそれは仏教ではない、お前が間違ったことを教わったか勝手に解釈しているだけだ、として、また違う考えを教えられたらどうなるだろうか? そして、それが複数あり、それぞれ異なっていたら。
Aをするのが仏教だとの教えに従って実践していたらAをしないのが仏教だと言われたら?
信仰に関しては常にこの問題がつきまとってくる。
そこで、仏教を信じているのではなくAの実践を善いと思って行っている、と考えることもできる。これも仏教である、と主張することもできる。
宗教でいくつも宗派が分かれていくのも、このようなことから起きているのだろう。

宗教は胡散臭いとか言っている現代日本人がなぜかカルト宗教にはまってしまう理由

現代日本人には、伝統宗教としての仏教や神道キリスト教などをはっきり信仰している自覚を持っている人は少ないでしょう。
宗教は胡散臭いと思っている人も多い。
それでも、特定の宗派に拠らなくても、素朴な自然崇拝(アニミズム)、人智を超えた自然への畏怖、祖霊崇拝、汎神論的な感覚、全体論志向、などの日本人の伝統的な宗教感覚は保持しています。これらは広く東洋思想の一つとも言えます。
そして、教義や思想や行動規範としての宗教は信じないが、霊魂、霊的現象、占いや予言、超常現象、現代化された魔法や呪術、つまりオカルトなどを何となく信じている人は特に若い人には多い。神秘的なものに魅かれたりするし、救いやご利益だって期待しない訳でもない。
そしてまた、これらのオカルトや東洋思想は、新宗教、新新宗教ニューエイジ思想、カルトでは非常に重要な要素(売り物)だったりもします。
そこが現代日本人の宗教観とは親和性が高い。
だから、宗教は胡散臭いなどと言って伝統宗教には突き放した態度をとる現代日本人が、その一方、胡散臭いはずのカルト宗教にはあっさりはまってしまうこともあるのは、これが理由でしょう。

煩悩や執着を捨てる悟りへの道は物を捨てることから始めよう

802 :おさかなくわえた名無しさん :06/03/10(金) 17:32:24 id:s2RHsW2o
上にコレクションについての話がありましたけど
私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした
鉄道模型でしたけど

かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが
毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい
留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました

帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました
残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです

でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり
今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって

あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが
夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい
かえって私が苦しくなってしまいました

これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです
こういう場合ってどうしたらいいんでしょう


ネットにこんな書き込みがあって、これに対しては、何ともひどい話だ、この妻の無神経さに腹が立つ、夫に同情する、などの意見が多いようでした。
でも、この夫は大切にしていたコレクションを捨てられたことが切っ掛けで、何か心がふっきれ、感傷や執着といったものを超越し悟りに近い境地へ近づいたのではないかという気もします。少なくとも、コレクションに起因する悩み(もっと欲しいのに買えないとか、メンテの手間や煩わしさとか、妻との軋轢とか)からは解放されました。妻もやがて夫の境地が理解できて、必要最低限以外の物は捨てられたかもしれません。
現代においては、悟りを目指して出家したくても、社会的実生活や家族は簡単には捨てられないという現実があるので、疑似的な出家行為として、執着を断つ道へ入るには、こうやって物を捨ててしまうことが近道のようにも思います。
自分の場合、コレクションってほどでもないですが、CDが2000枚近くあって、一応整理して収納しているので特に邪魔ではないものの、これも、何は残して何は捨てるのような取捨選択はあえて考えず、一気に捨ててしまうか、ゴミの日ごとに端から20枚ずつ捨てていくとかの方法で、執着を断つ実践にしたいと思っています。
結局、
物を捨てる際には欲をかかずに思い切りよく捨てるべきこと
物を処分する時は、一番大切な物をまず捨てよう!
の実践に他ならないわけです。


(追記)
引用した書き込みには続きがあるようです。

828 :802 :06/03/11(土) 12:21:02 id:ImOgEUVz
皆さんありがとうございます
今朝出勤前の夫と話をしました
謝ろうとしたのですが
「君の気持ちに気づけなかった僕が悪いんだから」
という答えしか返ってこなく謝らせてもらえませんでした
取り戻すか新しいのを買おうとも言ったのですが
「もういいんだ」を繰り返すばかり
考えてみれば夫のコレクションは結婚以来ほとんど増えてません
昔からのものばかりだったのでしょう
夫の部屋の中だけでしたし掃除もしていました
(共働きのため家の掃除は殆ど夫がしています)
ただ新婚の家に既に夫のコレクションが沢山あったので
私は結構苛ついていたんだと思います
別に部屋に籠っているというわけでもなく
二人で映画を見たりご飯を作ったりしている時間の方が遥かに長かったのに
なぜか私は苛ついていました
本も読まなくなってしまいました
私が見ているテレビを後ろからボーと見ているだけ
謝らせてもくれないぐらい傷つけてしまったんだと思います

妻の方は気にしすぎだと思います。これをきっかけに執着を断つ境地になっていればいいと思います。

きづきあきら+サトウナンキ『まんまんちゃん、あん。』を読んで

まんまんちゃん、あん。 第1巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第1巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第2巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第2巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第3巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第3巻 (バーズコミックス)

全三巻


この作家さんは、去年『つぼみ』誌で知って関心を持っていました。
さいきん、お寺を舞台に、お寺の跡継ぎと運営の問題を扱った興味深そうな、この作品を知る機会があり読んでみました。
まことに充実した読後感でした。


タイトルの、まんまんちゃん、とは関西の方での仏様の呼び方、あん、とはお祈りのことば、と説明されています。


舞台は、東京都下にあるらしい禅寺随徳寺、幼稚園や斎場なども持つ、それなりに大きなお寺でも、跡取り息子(副住職)になかなか嫁の来手がないことに悩んでいる。


主な登場人物は、


めぐり・・・・主人公、初登場時は高校生、巨乳、明るい頑張り屋の働き者、実家は経営の厳しい商売をやっている子だくさん。長姉は経済的に進学を諦めるほど。バイト先の婦人に寺の嫁として薦められるちょっとした縁で、信玄に一目惚れ卒業を待って寺に嫁入り

信玄・・・・随徳寺の長男、30代?、なかなか悟った人物、めぐりと結婚するも、新婚2か月で事故死

一円・・・・信玄の弟、岬という恋人がいる

恵春・・・・一般家庭の出で、発心して出家、随徳寺で修業中

慈恩・・・・僧侶だが初登場時は俗人のキザな遊び人風、信玄がいなくなって人手不足の随徳寺に入る

信玄の父(住職)・・・・もとは先代の住職が引き取った孤児だが、寺を嗣いだ、鷹揚そうな人物

信玄の母・・・・若いころはヒッピー娘風で、寺に見合いで嫁入りする前は学生運動の闘士?の恋人がいた。もし実子に嫁が来なければ、行く末、寺から出なければならなくなることに悩んでいる

黒柳・・・・檀家総代、何やら思惑があるらしい

岬・・・・一円の恋人。一円のことが好きでも、寺の嫁になることは躊躇している


みなそれぞれの形として理想と現実を持つ若い僧侶たち、彼らとめぐりの、檀家さんたちの、住職夫妻(特に妻)の生活と葛藤が、力強い独特の描線で、生き生きと描写されます。テーマはけっこう重くても過度に深刻にはならず、ムードは基本的には明るい物語です。

いろいろ考えさせられる話ですが、話が始まってすぐ未亡人となってしまっためぐりがその後誰とくっつくのか、それとも? という四角関係恋愛漫画としての興味も充分。
ラストに「ん?」と含みを持たせる余地を残す構成は『つぼみ』の『エビスさんとホテイさん』と同じような作りなので、この作者の作風なのかもしれません。


そもそも、自分がこれを読む切っ掛けとなったのは、昨年に、末寺の後継問題で本山が跡継ぎ維持のため僧侶の見合い斡旋をはじめるというニュースを読んで、思うところがあったので、放言めいたことをこのブログに書きました、その後、同じテーマに言及したブログ「ひじる日々 東京寺男日記 Ehipassiko!」2009-06-19 『まんまんちゃん、あん。』が描いたものを知り、そこにこの漫画が紹介されていたのです。


自分が、百合漫画というジャンルに興味を待たねば、『つぼみ』を手にすることもなかったろうし、この作家さん(きづきあきら+サトウナンキ)になぜか惹かれることもなかった、自分がその春からブログを書き始めていなければ、先のニュースについて放言することも、それによりこちらのブログ様「ひじる日々 東京寺男日記 Ehipassiko!」を知ることもなかった、漫画が紹介されていても、この作者さんでなければ、ぜひすぐ読んでみようとはおもわなかったかもしれない。そして、読んで感動を味わうこともなかった。
こうしてみると、自分は、単なる偶然ではなく、何か出会うべくして読むべくしてこの作品を読んだのだという気がします。
大声で主張するつもりもありませんが、この世界には、偶然の重なり以上の相互関連性、仏教でいうところの「縁起」ようなものが存在することもあるのだという、日頃からの感を強くしました。


充実した気持ちを与えてくれた
作者きづきあきら+サトウナンキ様、紹介して下さったブログ様、そして釈迦牟尼世尊に、一切衆生に、薩婆訶。

精進料理とはまずいものを食べることではないけれど

菜食をしようとすると、このような本が参考になります。


 梶浦逸外 精進料理口伝 大法輪閣 
 梶浦逸外 精進料理の極意 大法輪閣


いかに精進で、おいしい料理を作るか、そのテクニックが、様々なおいしそうな料理のレシピとともに述べられています。

肉魚のたぐいを使わないでもこれだけおいしい料理が作れるのだと、非常に参考になります。


しかし、疑問がないわけでもありません。精進料理とはいえおいしいものを食べていいのだろうか? 完全な菜食だけで精進なのか? ほんらい、殺生をしないということの他、食欲を超越する、うまかろうがまずかろうがどうでもいいという意義もあったのではないでしょうか? すなわち美食の否定ということです。
もちろん、健康な素材を使用してきちんと調理すれば、別に巧まざるとも自ずと美味くなるものだ、と考えることもできるでしょう。
でも、そのあたりに凝り始めると、既製品の野菜とかではダメで、なんとか農法等の特製品の素材を追い求めることになり、調理にも手間をかけ、手段が目的化してかえって高く付き、一種の贅沢になる。
いろいろ考えてしまいます。まだ結論は出ません。ただ、以前自分が少し述べたように、充実して生きていれば所詮食べ物の味などうでもよくなるということもあるのではないでしょうか。

仏像を人形って‥‥

仏像のことを指して、人形って言ってる人がいたよ‥‥。
仏様と言って欲しいとまでは思わないけど、事情を知らない外国人ならともかく、人形はないだろう。
仏像なんてどうでもいいという信念で人形と言ったわけでもないだろうし。

迷いと悟りに関するメモ

迷いと悟り
迷いの中に生きている人間にとって迷いから抜け出した境地とはいかなるものか? 
畢竟、迷いと、そこから抜け出した境地=悟りは同じものであり、迷いの中にこそ悟りはある、迷いだの悟りだの分別臭く分けるようのものでもなく、悟ったからといって迷いから抜け出しそのままどこかへ飛んでいってしまうものではない、悟っても迷いの世界にすぐ戻ってこそ悟りは生かされる、と、こんな考えもできるわけですが、果たしてそれでいいのか?
さて、何が言いたいのかというと、悟ってどっかへ行ってしまってもいいような気がします。悟ればつまらない日常の迷いの生活も気にならなくる、なんていうのも単純に過ぎる。社会にしがらみがある人は、悟ろうがどうしようがどっかへ飛んでいっちゃうわけには行かない。しかし、真に「出家」な身の上にある人にとってはそれはどうでもいい、ということじゃないでしょうか。

高野山真言宗の破戒?

読売新聞の記事によると

お坊さんの婚活支援、高野山真言宗が後継者難で…他宗派注目
 高野山真言宗(総本山・金剛峯寺和歌山県高野町)が、末寺の後継ぎ確保のため、今春から、独身の男性僧侶や寺の娘に出会いの場を提供するサポート事業に乗り出した。

 同宗宗務所は「世間で『婚活』が言われる時代。僧侶がよき伴侶を見つけ、安心して寺の仕事に精進してくれれば」と期待。同様の支援は浄土真宗本願寺派でも始まっており、今後、寺の存続に悩む他宗派の注目も集めそうだ。
 高野山真言宗の末寺は約3700あるが、後継者難は年々深刻化。若い僧が同世代の女性と知り合う機会が少ないことや、地域で見合いを世話する人が減ったことなどが原因で、全国の宗務支所から「相手を紹介してほしい」との声が寄せられていた。
 サポートの対象は末寺の子女と、同宗の住職になる資格を持つ男性ら。専用のホームページ(HP)でダウンロードした登録用紙に、結婚後に住む希望地域、養子になる必要があるか、飲酒や喫煙を認めるかなどを記入させ、金剛峯寺が、条件の合う男女の間を取り持つ。後継ぎのいない寺には、他の寺の僧侶らを紹介する。
 4月にHPで告知したところ反応は上々で、登録用紙のダウンロードは100件近くにのぼっている。
 次女(31)の結婚相手を後継ぎにと考える愛媛県今治市の住職(60)は「山間部の寺の後継者探しは切迫した問題。住職がいなくなると、たちまち檀家(だんか)が困る」と話し、登録を検討中という。
 一方、浄土真宗本願寺派は2007年に縁組の支援をスタート。宗務所内に嫁や婿を探す寺院や、出会いを求める門徒の女性、男性僧侶らの資料を保管し、お見合いの希望者が意中の人を見つければ、仲介をする。これまでに4組のカップルが誕生した。
(2009年6月10日17時23分  読売新聞)


とのこと。
ひどく違和感を感じる話である。何が婚活であろうか。
僧侶はすなわち出家であろう。結婚して家庭を持つなんて本来はおかしい。明治以降僧侶の肉食妻帯が許されているといっても、あくまで国の定めがなくなったというだけで、仏教の基本まで変わったわけではあるまい。妻帯するにしてもせめてこっそりやるべきで、宗門が率先して結婚斡旋などをやるのは仏教の堕落ではないか。あくまで基本は出家である。そもそも住職が世襲の家業というのもおかしい。教義がしっかりしていれば跡継ぎなどは自然に入門してくるであろう。酒離れ、恋愛離れ、娯楽離れが言われるように禁欲的な若者が増えているのだから候補者には事欠くまい。堂々と僧侶の破戒が行われる世の中ならまさに末法という他ない。
しかも飲酒とは何ぞや。正直と言えば正直なのかもしれないが。そういえば、ある地方で生活していた時、真言宗の住職が法事で檀家の人たちに酔い潰されるのをよく見たことがある。それが現状だとしても、そういうことを異とも思わない檀家の人々にも問題はあろう。
人間にしろ僧侶にしろ、清濁合わせ持つほうがよい、なんてつもりなら甘えだし、むしろその方が一種の「キレイゴト」にすぎない。



2010年6月23日付記
この問題に関するテーマの興味深い漫画を読んだ。

仏教名句

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」
道元

仏道をならうというのは自己をならうことである。自己をならうというのは自己を忘れることである。自己を忘れるというのは宇宙のすべてによって明らかにされる(=悟らされる)ということである。宇宙のすべてによって明らかにされるとは、自分及び他者の身心(=意識・感覚)を抜け落ちてなくならせるということである。そこには悟りの跡形もなく、跡形のない悟りが永遠に続いていくのである)


「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は是れ実相なり」
空海
(五つの元素(からなるあらゆるもの)には皆(真理の)響きがある 十界(=全ての世界)は(真理を語る)言語を持っている 六つの感覚による全ての認識対象はことごとく(真理を表す)文字である 仏の真理はありのままの姿である)


「菩提本より樹無し 明鏡もまた台に非ず 本来無一物 いづれの処にか塵埃を惹かん」
〜六祖慧能
(悟りにもともと(たよりになる)樹などはない 明鏡(のような心)もまた(悟りの)台ではない 本来無一物 どこに汚れがつくことがあろうか)


「応無所住而生其心」
まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。
金剛般若経
(何かにとらわれることなく発心しなさい)


「願わくはこの功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」
〜普回向


十仏名

十仏名(じゅうぶつみょう)


清浄法身毘盧舎那仏(しん じん ぱ しん び る しゃあ のう ふう)
円満報身盧遮那仏(えん もん ほう しん る しゃあ のう ふう)
千百億化身釈迦牟尼仏(せん ぱい か しん し きゃあ むう にい ふう)
当来下生弥勒尊仏(とう らい あ さん み るう そん ぶう)
十方三世一切諸仏(じい ほう さん しい い しい しい ふう)
大乗妙法蓮華経(だい じん みょう はあ りん があ きん)
大聖文殊師利菩薩(だい しん ぶん じゅ す りい ぶう さあ)
大乗普賢菩薩(だい じん ふう えん ぶう さあ)
大悲観世音菩薩(だい ひ かん し いん ぶう さあ)
諸尊菩薩摩訶薩(しい そん ぶう さあ もう こう さあ)
摩訶般若波羅蜜(もう こう ほう じゃあ ほう ろう みい)