自分にとっての幸せのモデルって何だろう???

いい歳こいて自分探しかよと思われても、自分は自分の幸せのモデルがいまだに見つからないでいます。どういう人生であったら自分は幸せなのであろうか? 別にそんなものが分からなくても、社会の成員として自分の能力にあった労働を行って暮らしていけば、幸せはそこからフィードバックされるものなのかもしれません。また、意味感を喪失して全てが無価値と気付くようになって25年以上経ち、わざわざ苦行は望まないものの、幸福でありたいという気もまた希薄になってきているのです。それなら尚のこと何しても同じだから考えるよりも動け、と内なる声は叫ぶのですが、やはり意味を感じられないことのために行為を行うのは最悪の苦行よりももっとつらい。つまるところ何の為?という堂々巡りに陥ってしまいます。考えをまとめる為に書いているはずのこの文章も、まるでまとまりがない混乱状態になってきている。


根本的に「夢」を持つことがなかったからかもしれない。夢を実現させようが、夢に向って努力している途上だろうが、あるいは夢は夢としてかなわぬ夢として諦めて身の丈に合った現実的な人生を歩もうが、夢というのは確かに人生において重要な要素となるわけです。ところが、自分は何か一つでも夢を持ったことがあるだろうかと考えたら何もない。そのように始めから人生を投げている状態で、幸せのモデルなんてあり得るはずがない。


何事に関しても意味性が認められないから、自他ともに幸福を覚えられなくなっている。そのうちに何か湧いて出てくると期待できないほど人生の晩年になりました。
求められる時に求めもせず、求められなくなった状況で結局我慢しなければならなくなり、そもそも何の為だったのでしょうか?


そもそも世界の一切に意味を感じられなければ、行動のモチベーションも湧きようがない。
苦しみたくはないし、楽はしたい、けれども楽しみたいという気もしない。楽しみって要するになんだろう?