自動車依存社会の終焉を目指して—7.「犯人」は誰か?

自動車依存社会がもたらすさまざまな害悪について、ではその「責任」は誰にあるのか、誰が「犯人」なのか、と考えていくと途端に不明瞭な状況に直面することになって、この問題の解決の難しさが浮き彫りになってくる。
他の交通システムでは、たとえば鉄道ならば運営している事業者が存在するので責任の所在は明確であり、鉄道の弊害については鉄道事業者を追及すれば済むのである。
自動車問題はここが難しい。道路の騒音や排気ガスなどをめぐって道路管理者である国などが訴えられることがあるが、自動車という交通システムの運営主体は存在しない。中央集権的な交通システムである鉄道や旅客機と違って、自動車は分権的なシステムのような外観を持つ。
具体的な「犯人」や「敵」が設定されないと社会問題として関心を引きづらい。

宇沢弘文氏においては、社会運動的な「責任者」「犯人」の所在を問うよりも、自動車使用者が外部化している社会的費用を内部化して相応の負担をすべきことが説かれる。(→
二木雄策氏においては、交通事故の賠償が被害者に即したものである必要性が経済学の立場から説かれる。(→
この二人の経済学者の根本にあるのは、自動車にひそむ本質的な不経済性と反社会性の問題だろう。宇沢弘文は、自動車は経済社会自体を破壊する性格を持つガン細胞であると言う。二木雄策は「くるまを運転しない人をも含め、この社会に住むすべての人々が現在の「くるま社会」が異常なものであるということを自覚しなければならない」と言う。
松本清張は、凶器のような自動車を売ってひたすら利益を貪る自動車メーカーを批判する。(→ )この立場を強めれば交通事故の加害者もまた自動車によって加害者にされてしまったむしろ被害者でもあるとなってくる。
自動車とはつまり交通事故を起こすのも交通事故に巻き込まれるのも自動車依存社会に生きるものの「自己責任」ということで結局泣き寝入りさせる狡猾なシステムであるといえよう。
もし、事故が起こる確率が年間1回だけだがその際には6000人の死者が出ると見込まれる交通システムが事業者から提案されたら、社会は導入を拒否するであろう。(→*1)しかし、自動車という交通システムは年間6000人の事故死者を出しても1日単位では10数人でかつ全国に分散されるので一見被害が少ないように「見えて」しまうので受け入れられている。算術的なトリック・錯覚といえる。これも自動車が分権的なシステムのように見え責任の所在が不明だからである。
自動車には個人のドライバーには負い切れない重大な責任が求められるのに、「自己責任」とされる。「自己責任」とは「無責任」と同義である。重大な人身事故によって被害者も加害者も苦しむことになろうが同じ社会に暮らしていても他人からは「運が悪かったね」としか受けとめられなくさせるのが「自己責任」という考え方である。自動車によって街や地域社会が衰退しようが自動車を使った者の「自己責任」とされてしまう。つまり自動車依存社会は「社会的責任」を果たしていないのである。
人権や市民的自由(→*2)の観点に照らして適当なものかどうか吟味されないままに自動車の導入が行われてしまったことが誤りの始まりであった。
自動車は分権的な交通システムであるかのごとき観を持ち、自由な移動の手段となることからも、自由の象徴として受けとめられたのかもしれないが、それはもっと普遍的的で本質的な自由を侵害した上でしか成り立たない自由であった。とてつもない錯誤であった。
自動車依存社会から人間中心社会へと転換しこの誤りを正さなければならない。


(続き)
次回は結論的に、自動車という乗り物はどうあるべきか私見を述べたいと思う。

自動車依存社会の終焉を目指して—8. 自動車のあるべき姿


(注)
*1 
それゆえ例えば1000人乗り以上の旅客機が実現するかは疑問である。墜落一回で数千人の死者が出ることに社会は耐えられないだろう。もし実現してそんな事故が起きた時の社会的衝撃の巨大さは想像もつかない。ちなみに交通関係の事故死者はタイタニック号の沈没による1500余名が史上最大である。


*2
すなわち、健康で快適な生活を営むことができる「生活権」・安全にかつ自由に歩くことができるという「歩行権」を含む基本的な権利を享受できる自由。


(承前)
自動車依存社会の終焉を目指して—6. 自動車が街や地域社会を破壊している