自動車依存社会の終焉を目指して—3. 交通事故の賠償の問題(被害者に酷で加害者に甘くできていること)

交通犯罪の加害者がきわめて寛容に扱われていることは、交通犯罪の償い、すなわち交通事故の賠償においてもみてとれる。


人が命や健康を奪われたり心身を傷つけられたりすることは、そもそもいかなる方法によっても償えないものである。失った命や健康を元通りに回復することはできない。命も健康も金では買えない。人身事故の損害賠償は本来は不可能なのである。
しかし、現実に金銭で賠償が行われているのは、それ以外に方法がないからである。仕方なく行っているにすぎない。
命や人身に値段が付けられることは被害者にとって辛いことである。従って金銭での賠償は被害者に誠心誠意を尽くして行われなければならない。
金銭が係わる問題だから金額をいかに算定するかということは重要である。
しかしそれは、被害者や遺族が納得できるようなあり方になっているとは、とてもいえないのが現状なのである。現在行われている賠償はさまざまな問題を孕んでいる。


賠償には、治療費など被害者が直接的に支払いを余儀なくされる費用(積極損害)に関するもの、被害者が事故によって得られなくなってしまった損害(消極損害)に関するもの、そして慰謝料がある。
消極損害とは逸失利益といわれるものである。特にこれについて述べてみよう。
例えば死亡事故の場合、その人が死なないで生きていたら今後どのぐらいの金銭的利益を得ていたかを算定して、その金額が逸失利益として遺族に支払われる。
大学生が死亡した場合なら、この先就職して就労年限まで働いていた場合の生涯収入が逸失利益とされる。賠償は年ごとの分割払いではなく一括で支払われることから、その全額を運用して得られるだろう利息分が生涯収入として算定した額から割り引かれたものが、実際に賠償として受け取る金額となる。(中間利息の控除)
その利率は多くの場合、年5%として計算される。この利率を単利とするのがホフマン方式、複利とするのがライプニッツ方式である。
大学生の死亡事故なら、逸失利益を求めるのに、就労期間を67歳までとおいて、年間所得額を初任給とみなしそこにホフマン方式による係数を掛けた金額、または年間所得額を全年齢平均賃金とみなしそこにライプニッツ方式による係数を掛けた金額が、すなわち利息分が減額された金額が賠償として遺族に支払われる。

金額については場合場合があって上記二方式のどちらが高額であるかは一概に言えないが、賠償について裁判になる場合、前者が関西地方で用いられ、後者が関東地方において用いられるなど、裁判所の管轄によって用いられる方式がはっきり分かれている。
(利息分の減額において複利で計算した方が単利で計算するよりも減額率は大きくなるし、平均年収には初任給を用いるよりも全年齢平均賃金を用いる方が一般的に額が大きくなるだろう。そこで、単利(ホフマン方式)を採用する時は初任給と組み合わせ、複利ライプニッツ方式)を採用する時は全年齢平均収入と組み合わせ、どちらによっても額が大きく変わらないようにバランスを取っているという)


しかしいずれにおいても、逸失利益という考えであってさえ、全く不充分な金額にしかならなのである。現実と比較してせいぜい生涯収入の十数年分程度しかカバーされていない。
さらに割り引くための利率が5%とされているのは民法の規程によるとはいえ、超低金利時代の現代において全く実情に合っていない。
利息を見込んで割り引くというのは結局将来の経済成長を前提に置いていることになるが、それならば初任給にせよ全年齢平均にせよ現在の給与水準を元にして生涯年収を算定することと矛盾していると後掲の参考文献では指摘されている。つまり賠償額を減額させる割引きは不要であるという。
そして、男女に賃金格差があることに限っては現実として認められ、女性の方が賠償金額が低く見積もられることも起こっている。そこでは、現に存在している男女の賃金格差が将来において解消していると認め得る積極的な証拠を見出せない、などとして将来にわたって男女の賃金格差が存在することが前提とされてしまうのである。
逸失利益という考え方自体が人間をただ金銭的価値を生み出す道具としてのみとらえてその他の面は捨象していることはいうまでもない。


このように、支払われるべき賠償においても、被害者に極めて不利な仕組みになっていて、すなわち加害者に有利にできている。加害者に甘く被害者に酷なのである。

自動車事故の賠償金を支払う加害者とは実質的に保険会社であるから、保険会社に得になるようなシステムになっているわけである。保険により直接の加害者は賠償の支払いという厳しい役目に関らずに済んでしまう。


刑罰においても交通犯罪・交通事故が寛刑であることは先に述べた通りである。(→
なぜ交通犯罪ではこのように加害者に寛容で、保険会社にも有利になっているのであろうか。
簡単にいえば、要するに誰でも交通事故の加害者になりうる立場なのだから、車社会を維持するためにも加害者をあまり責めず被害者には多少泣きを見てもらうことも仕方ない、という非人間的な考え方によるものなのである。人間よりも自動車を重んじているのである。自動車で成り立っている自動車依存社会が、所与のものとして、必然のものとされて、人々を圧迫してくる。
これは強者の論理、いわば犯罪者の論理である。
社会を交通犯罪の共犯者の仲間とし、つまり加害者側に立たせて暗黙の社会的圧力により被害者を泣き寝入りさせている。(後述の参考文献、二木雄策『交通死』では、このことを、航空機事故などと違って自動車事故は誰でも加害者になりうる立場だから、「人は誰でも自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向を持っているからである」「事故の加害者を厳しく追及することは、自分自身が厳しく追及されることになる」と言っている)
社会全体を加害者の仲間に引きずり込み、お前もやるんだから人のやることも許せという構造は、少し前まで飲酒運転が大目にみられ寛容に扱われていたことと全く同じである。みんな飲んで乗るんだからいいじゃないかとして飲酒運転があまり咎められないできた。
さすがに今は飲酒運転は厳しく扱われるようになったが、交通犯罪全体においてはまだまだ加害者に寛容・保険会社に有利すぎるので、自動車依存社会・車中心社会から人間中心社会へ移行していくために、被害者がきちんと償われるようにしなければならない。
(自動車事故を起こして人を殺傷させた加害者もまたある意味自動車依存社会の被害者といえるかもしれないが、彼らを犯罪者扱いしたくないし自分もそのような犯罪者になりたくないとしたら、交通犯罪を寛刑・加害者を寛容な扱いで済ませて取り繕うのではなく加害者を生まないように自動車依存社会から人間中心社会への転換こそが必要なのである)


保険金額において保険会社に甘いということはそのような金融資本を持つ経済社会に甘いということである。しかし自動車が癌細胞のように経済社会をも蝕んでいることをよくよく考えねばならない。
現在のところ自動車が何かしらの必要悪であったとして、その自動車依存社会をかろうじて支え成り立たせているのが保険制度だとしてもそれは全く不充分なものにすぎないのである。


そして、自動車保険にはさらに暗黒部分が存在している。
保険金の不払い問題である。近年特に自動車保険の不払いが激増している。支払うべき保険金を、何かと理由をつけて出し渋る不払い行為が自動車保険を扱う大小ほとんどの保険会社で横行し、最近発覚しただけでも百数十万件にものぼる膨大なものとなっている。
保険会社は営利企業だから、保険金を払わないでいれば利益は上がるだろうが、自動車保険は社会の安心を成り立たせているシステムなのだから、不払い行為はその安心を土台から突き崩してしまうことになり悪質きわまりない。
保険が保険として機能せず、保険という安心にかろうじて支えられていたはずの自動車依存社会がすでに根底から蝕まれている。
なぜ保険会社はそんな悪質な詐欺・犯罪そのものである不払いを頻発しているのだろうか。保険金不払いの横行は、逆からみれば、そのような悪質な犯罪にまで手を染めなければならないほど経営が苦しくなっているということだろう。経済の低迷でそうなってしまったのなら、もはや自動車依存社会自体の完全な破綻であろう。
先に述べたように(→ )自動車は鉄道などに比べるとはるかに危険な交通システムである。
賠償が前述のように甚だ杜撰な算定であるとはいえ、保険があるから最悪事故の場合でも金銭的フォローはされるというのが、危険な自動車依存社会・車社会を推進するための方便だったはずだが、それすら成り立っていない。
何よりも自動車よりも安全な交通システムへ移行していかなければならない。


あれば多少便利だがなくても困らない、なくても困らない程度に留めて置かれるべきだった自動車が、自動車産業の都合によって、なければ(生活が)不便なものとさせられた。自動車依存社会・車社会は強引に作り出され人々に押し付けられた。
その負担が交通事故の被害者にまで転嫁されているのである。



賠償・逸失利益については
二木雄策『交通死—命はあがなえるか—』(岩波新書

交通死―命はあがなえるか (岩波新書)

交通死―命はあがなえるか (岩波新書)

を参照。

著者、二木雄策(ふたつぎゆうさく)氏は経済学者(神戸大学名誉教授)。この本では、令嬢を交通事故で殺された遺族として交通犯罪の処理のされ方に疑問を感じ、車社会の異常さや、特に賠償のあり方がきわめて非合理的・非論理的に(非倫理的にさえ)なっていることを専門の経済学の観点から詳しく批判したものである。


(続く)
自動車依存社会の終焉を目指して—4. 自動車の社会的費用


(承前)
自動車依存社会の終焉を目指して—2. 交通犯罪がきわめて寛刑である現状