吾輩は猫でありお爺さんとお婆さんがおったのはなぜか —「は」と「が」の違い
「吾輩は猫である」
「昔々あるところにお爺さんとお婆さんがおりました」
これを
「吾輩が猫である」
「昔々あるところにお爺さんとお婆さんはおりました」
としたらどうだろうか。
独立した文としては成り立つが、物語の書き出しとしては何だか落ち着かなく違和感を感じるだろう。
いきなり「吾輩が猫である」と言われたら、吾輩って誰だ?と感じるし、いきなり「昔々あるところにお爺さんとお婆さんはおりました」と言われたらやはり、お爺さんとお婆さんって誰だ?と感じる。
「は」と「が」はそれぞれ入れ替えられない重要な意味を担っている。
「吾輩は猫である」は自己紹介の名乗りである。自己紹介では、「私はだれそれです」と名乗る。「私がだれそれです」とは普通は言わない。
この「は」と「が」の意味的な違いは何だろうか。
結論から先に言うと、情報の既知と未知にかかわる違いである。「は」が下に付いて提示される状況は既知の情報であり、「が」が下について提示される状況は未知の情報なのである。「AはBである」と言うとき、Aという既知情報についてBという状況であると陳述をし、「AがBである」と言うとき、Aという未知情報についてBという状況であると陳述をしているのである。状況Bは未知であることも既知であることもある。
陳述が行われることで未知情報は既知情報になる。
自己紹介で「私はだれそれです」と言うとき、語り手の「私」という存在は聞き手の前に姿を現しているから既知だが、「私」がどういう者かはまだ分らない。そこで「だれそれ」という未知情報を聞き手に示すのに、「私はだれそれです」と言う。このさいに「私がだれそれです」と言ったら、「私」の存在が姿を見せているのに未知として提示してくることになり奇異に感じる。「私がだれそれです」が成り立つのは、不特定多数の人がいるところに「だれそれさんは誰ですか?」と問いかけたときの返事で「私がだれそれです」と答えるような場合である。この場合の「私」の存在は聞き手にとって不定の未知情報だからである。
そして、「昔々あるところにお爺さんとお婆さんがおりました」は物語の設定を述べているのだから、現われてくる状況はすべて未知の情報であり、「お爺さんとお婆さん」は具体性がなく不定である。ゆえに「昔々あるところにお爺さんとお婆さんがおりました」と述べて、お爺さんとお婆さんの存在は既知情報になったので、次に「お爺さんは山へ柴刈りにお婆さんは川へ洗濯に行きました」と続くわけである。
手元にある本から拾ってみると小説の書き出しでは、
「高橋朝子は、ある新聞社の電話交換手であった。」(松本清張「声」)
「内堀彦介は、成功した、と自分で信じている。」(松本清張「共犯者」)
「○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやってきました。」(江戸川乱歩「算盤が恋を語る話」)
「金井湛君は哲学が職業である。」(森鷗外「ヰタ・セクスアリス」)
など、「吾輩は猫である」と同様の「〜は〜」が多いのは予想通りであるが、
「その店を見たとき、突然<デジャヴュ>という奇妙な言葉が江間隆之の頭にうかんだ。」(五木寛之「戒厳令の夜」)
「敗戦後、三度めの夏が訪れた。」(中井英夫「緑の時間」)
のように、「〜が〜」で陳述されるものもある。この場合、主人公の属性や言動ではなく背景的な状況を述べているので、「〜が〜」であるのは妥当であり、ここが「〜は〜」だったら「<デジャヴュ>という奇妙な言葉」や「三度めの夏」が、命をもった主人公として設定されているように感じられてしまう。
次の場合の「〜が〜」はどうだろうか。
「「西村さん、お電話、警察からですって」女事務員の梅沢康子が、受話器を目の高さまで上げ、甲高い声で、西村貢を呼んだ。」(佐野洋「不運な旅館」)
この作品の主人公は「西村貢」であり「梅沢康子」は単なる背景的な登場人物にすぎない。そこで未知の背景的状況を述べるのだから「梅沢康子が〜」と表されているのは妥当であり、「梅沢康子」がもっと主要な主人公的登場人物だったら「梅沢康子は〜」と表されることになるだろう。
提示する情報の既知、未知に加え、トピック(主題)性があるときに「は」で表すと考えると分かりやすくなる。