うそつきのパラドックス

うそつきのパラドックスとは、
(1) この発言は嘘である。
と言った場合、この発言は嘘なのか本当なのかという問題で、「この発言」とは(1)自体のことだとすると、(1)が嘘だとすると、嘘であるということが嘘となりすなわち(1)は本当ということになるし、(1)が本当だとすると嘘であることが本当なのからすなわち嘘であるということになり、嘘と仮定しても本当と仮定しても矛盾が生じる、というパラドックスのことである。
このパラドックスを解決するため、多くの哲学者や論理学者が様々なアイディアを出してきたが、未だに決定的な解決方法といえるものは現れていない。そもそも根本的な解決法はないのだと思われる。


言語の階層説という考えがある。
(1) この発言は嘘である。 
はつまり
(2) 「この発言は嘘である」は嘘である。 
であるから、この前半の「「この発言は嘘である」」と後半の「は嘘である」は別の階層に属する言語であり、前半が語られる部分であり、後半が語る部分として語られる部分よりも高い次元の言語(メタ言語)だとする。言語の次元は混同することができない。語られる次元は語る次元よりも低くなければならないとする。しかし、「この発言は嘘である」は入れ子構造をしているので、語られる部分の中に語る部分が入ってしまい、どうやっても次元の違う言語にごと切り分けることが出来ず混同が起きてしまう。このような文は言語階層に違反し無意味であるとする。無意味だからパラドックス自体起きていないと考える。
(1)は
「この発言は嘘である」は嘘である。
となり、さらに
「「この発言は嘘である」は嘘である」は嘘である。

「「「この発言は嘘である」は嘘である」は嘘である」は嘘である。

「「「「この発言は嘘である」は嘘である」は嘘である」は嘘である」は嘘である。




となって無限の入れ子構造をなしているのでどこまでいっても「この発言は嘘である」が解消することがない。
そこで、このような自己言及文は無意味であるとして、無意味な文はそもそも真偽を問うことが出来ず、パラドックスも成立していないとする。


あるいは、言明という概念を用い、真偽を担うのは言明であり、言明は真であることを目的とするとして、「この発言は嘘である」は真であることを意図していないので言明とはいえず、パラドックスが成立していない、とする考え方もある。


このように、うそつきのパラドックスについては、文を無意味または成立していない、あるいは真偽を問えないとしてパラドックス自体認めないというのがオーソドックスな対処法のようである。


自己言及文が必ずしもすべてパラドックスを生じたり無意味だったりするわけではない。
この文は日本語である。
という文は別におかしくないように見える。たまたまおかしくないように見えるだけで、入れ子構造で堂々巡りしていることには変らないのだが。だから言語階層という考え方も一筋縄ではいかないし、自己言及はよくないとも一概に言えない。


参考文献

うそつきのパラドックス―論理的に考えることへの挑戦

うそつきのパラドックス―論理的に考えることへの挑戦


(追記)
自己言及といえば『法華経』がそうである。『法華経』は要するに「『法華経』はありがたい」ということを説く経典なので、つまり自己言及されている『法華経』の中身も玉ねぎの皮を剥くようにどこまで行っても「『法華経』はありがたい」であることになり、『法華経』が何であるのかは絶対に明らかにならない。