『悪の教典』を読んだ

先日、映画版を観て、どうしても原作が読んでみたくなったので貴志祐介悪の教典』を一気に読んだ。映画以上に面白かった。
読んで感じたのは、この作品の感触や雰囲気が、かつて読んだ大藪春彦のハードボイルド小説と似ているということだった。
主人公蓮実聖司の、外面(さわやかな甘いマスクや人当たりの良さ、仕事の有能さなど)は良いが内面は「悪」、そして抜群に頭が切れる、というキャラが、大藪春彦の主人公を彷彿とさせた。大藪春彦作品でよく出てくる、真面目なサラリーマンが裏では悪党というパターン*1を、主人公を教師に置き換え現代的に再現したように感じた。蓮実のアメリカでの前職のくだり*2などもハードボイルド的である。
蓮実の行動原理は、蓮実がまさに殺そうとする犠牲者に
「なぜ、こんな、馬鹿なことをする? あんたは、頭がいい。人の心をつかむのもうまい。いくらだって、まともなやり方で成功できるじゃねえか? なのに、いったい何のために、こんな……」
と問われて次のように答えることで表されている。
「(略)……日常生活においては、誰もが、様々な問題に直面するだろう? 問題があれば、解決しなければならない。俺は、君たちと比べると、その際の選択肢の幅が、ずっと広いんだよ。」
「かりに、殺人が一番明快な解決法だとわかっていたとしても、ふつうの人間は躊躇する。もし警察に発覚したらとか、どうしても恐怖が先に立つんだ。しかし俺はそうじゃない。X-sports(引用者注;甚だしく危険を伴うスポーツ)の愛好家と同じで、やれると確信さえできれば、最後までやりきることができるんだよ。X-sports と同様、途中でためらうとかえって危険だけど、思いきって突っ走れば、案外走りきれるものなんだ。(略)」
このように目的のためなら殺人も厭わないあたりもハードボイルド的に感じる。(そのため蓮実の行動が若干策士策に溺れるという感も無きにしもあらず)
蓮実の性欲の旺盛さも見るべきポイントである。


映画では端折られていた日常の描写や蓮実の過去が小説では詳しく描かれていたので、映画で腑に落ちなかった場面の意味も分かった。


主に学校での日常を描く小説の前半部分では、他人への共感能力を欠く反社会性人格障害の「サイコパス」のはずの蓮実が、悪党だと分っていても、登場人物の中で一番人間的で、仕事への情熱と責任感や生徒への想いに溢れた魅力的な教師だと思えてくるから面白い。蓮実はすべて人を欺く演技でそうしていることになるわけなのだが。
そのようなことから、この作品のテーマは、蓮実の異常な人格を描くサスペンスの他に、理想の教師というものはしょせん演技でしか存在しないし、かつ演技であっても蓮実ほどのことができれば申し分ない、といったことなのかもしれない。


この小説も映画版も蓮実以外の登場人物はあまり思い入れた描き方をしていないので殺されてもたいして可哀想に感じないようになっている。


(追記)
携帯電話の普及により、外部との連絡が取れない孤立した状況をミステリーやサスペンス物で設定しづらくなっているわけだが、この作品ではそれをちゃんと伏線を張った上でかなりの力技でクリアしているのが興味深かった。


悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈下〉 (文春文庫)

悪の教典〈下〉 (文春文庫)

*1:『戦士の挽歌』や『蘇る金狼』など

*2:勤務先の投資会社の経営陣が不正な取引で利益を得ていることを嗅ぎつけそれを掠め取ろうとした企て