餅と蒟蒻ゼリー

そろそろ正月が近づいてきた。正月といえば餅の季節であり、餅といえば喉に詰まらせて死ぬ人のニュースが、さながらこの時季の風物詩のごとくである。
近年は喉に詰まらせる事故が起きる食べ物として蒟蒻ゼリーが糾弾されている。一方、餅を喉に詰まらせて死ぬ人が必ず年に二桁程度は出るし、お酒が原因で死ぬ人も多数出る。しかし餅や酒の規制論(→*1)や安全基準という話に決してならないのは、餅や酒は昔からそういうものだと認識されてウヤムヤのうちに世の中に受け入れられてしまっているからであろう。これは「ゴットの事象の地平線説(ゴットのコペルニクス原理)」の応用として解釈できる。
「ゴットの事象の地平線説(ゴットのコペルニクス原理)」とは過去長く存在してきたものごとは今後も長く存在する可能性が高い(安定して存在する)という説。(→ 及び 参照)
(長く続いてきたのはそれなりの理由や価値があるからで今後も続く、というのは良いことについては構わないが、因習も昔から続いてきたのだからとそのままズルズルと続けられてしまうこともあるのだが。)
つまり蒟蒻ゼリーなどの新来の食べ物や食品添加物の安全性が神経質なほどうるさくいわれるのは、新しいがゆえの不安定感(不安感もそれだ)を持たれるからである。同じような喉に詰まらせる死亡事故が起きても、蒟蒻ゼリーが規制され、餅の規制論にならないのは、前者が現代の新来の食べ物で後者は数千年?の歴史があるそのこと自体による。これが根底にある隠れた真の理由である。
整合性がなくても不条理でも世の中はそういうものなのである。仮に餅が現代に新しく現れてきたものだとして死亡事故を引き起こせば必ず厳しい批判を受けるに違いない。厳しく規制され全面禁止にまで到るかもしれない。
また、健康的・社会的な害悪は煙草よりもお酒の方がはるかに大きくても、規制は煙草の方が厳しくお酒に関しては緩いのは、お酒は何万年?も前から人類に蔓延してしまっているが、煙草が世界に広まったのはせいぜいここ数百年と歴史が浅い、そのこと自体が理由であることも理解できるだろう。これも不条理だけれど取りあえずは仕方がない。
結局、餅と蒟蒻ゼリーのどちらが危険かという議論に意味はない。
餅は存続が望まれるから危険視しないし衰退につながるような規制も求めないという結論ありきなのである。そして蒟蒻ゼリーは餅ほどは惜しまれてもいないのだから。(→*2)


(注)
*1 お酒については一応未成年が飲まないように規制されているのでは? と思うかもしれないが、それがお酒が引き起こすさまざまな問題の解決には全くなっていないのは自明であろう。


*2
餅にしたところで実際、喉に詰まるかもしれない危険を冒してまで食べなければならないほどの、餅でなければ摂れない栄養分があるわけでもなければ、好みは主観的になるが特別に美味なわけでもない。それでも昔からあるものとしての存在価値が認められているだけである。


(追記)
餅や酒は神事に使われるほどの重みを持っている。餅や酒の規制となるとここからも意識変革が必要になる。


(追記2)
餅も、たとえば、たまたまひどく喉に詰まりやすい性質の餅があって集団喉詰まらせ事故などが出来すれば、製品としての餅のあり方になんらかの規制がかかる方向に世の中が動くかもしれない。