将来、20世紀後半〜21世紀前半は史料の空白期間になる メディア、データの寿命

紙は酸性紙で100年もたずボロボロ。現在のデジタルメディアも数十年しかもたないし、そもそも記録の規格自体変わって、今のデータのままなら将来読むことができなくなる。たとえば現在、蝋管レコードが聞けない以上の変化をしているだろう。既になくなった古いアプリの独自のデータが読めないのとも同じだ。
さすがに数百年以上未来には、デジタルデータを文字通り半永久的に記録していつでも読み出せる技術は確立しているだろう。
それゆえ、将来一般的に史料のアクセスが困難になるこの20世紀後半から100年は史料の空白時代と呼ばれることになるだろう。この間に生み出された膨大な情報はほとんど後世に伝えられることなく消滅する。
それ以前の保存性の良い紙や写真フィルムに記録された人間が直接物理的に確認できる情報の方が長持ちすることになる。

さて、自分は今二千枚近くの音楽CDと百枚程度のレコードを持っている。これらは再生手段がまったく無くなればゴミでしかない。これを、何十年何百年先かにも聴けるよう、何らかのデータに移し替え、メディアの寿命の範囲でまたデータの規格が変わるたびにバトンリレー的コピーをして(これをマイグレーションという)伝えていくという手段もあるだろう。しかし、今ちゃんと聴けるものを、将来に備えわざわざそんな予備を作っておこうなんて気はなかなか起きないものだ。自分は永久に生きるられるわけでもないし。
普通の人はみなそうだろう。
こうして、この時代の記録や情報は、公文書のようなごく限られたもの(これだって怪しい)しか、将来に伝わらないことになるのだ。

読めないといえば、自分は当時マイコンと云われていたようなものを使っていて、予算がないからフロッピーディスクドライブは買わず作ったプログラムはカセットテープに保存していた。稚拙なプログラムでも自分にとって興味深いものはいくつかあった。また、プリンターもなかったから、プログラムは画面を見ながら書き取ったりもした。現在はそのテープもメモを取ったノートもなくなってしまったが、あったとして、どちらがすぐ読めるかは明らかだろう。

それでは、デジタルデータに関しては、記録や転送の規格およびそれを取り巻く要素をもう凍結してしまうという手段が考えられる。だがこれには特に技術関係者から猛反発が出るだろう、技術の進歩を阻害するものであり、なぜ今の低い段階の技術でとどまらなければならないのか、技術の進歩こそこの問題の根本的解決に繋がる、と。一般においても、記録の遠い将来の永続性よりも、近い将来の生活の快適な進歩を望むだろう。たしかに、いまだMS-DOSだとかWindows95だとかのころの環境を使わされていたならいやだろう。

自分の考えとしては、個人の子供のころの思い出が大人になってから見れなくなるとか卑近なことは、ある程度どうでもいいと思う。人類全体の史料としては、個人的なものは集約されればよい。むろん、個人の記録そのものが社会の歴史を書き換える史料となる場合もあろうが、すべての情報を記録保存しておくわけにもいかず集約化は必要だろうから。
とおもったが、デジタル情報を永久保存しておくことができれば、すべての情報を保存しておき、それを有効活用するための検索も容易であろう。

この一つの答えになりそうなのは、いわゆるクラウドにデータを保管するということかもしれないが、個人の情報の管理まで一つの企業ないしは他者にゆだねてしまうということへの不安は拭えない。


参考
国立国会図書館 電子情報の長期的な保存と利用 FAQ